トンガリ街道
くもみの好きな散歩道(?)
2010年6月3日に放送されたテレビ東京系「空から日本を見てみよう」で、東京都板橋区中丸町付近の川越街道が取り上げられた。
くもみが突然「あんなところに私の大好きなあれが!刺さると痛そうなアレですよ!」と叫び、空撮していたカメラが外装の一部を黄色と青色に塗った三角柱型の建物にクローズアップ。「測れ!トンガリ計測部」コーナーとして紹介された。
建物はフォトスタジオとして使用されていた。トンガリの内側はメイクアップルームと衣装保管スペースとのこと。計測部が建物両端の角度を測定したところいずれも45°。「待ちに待った直角二等辺三角形トンガリ!」と、くもみは大喜びだった。
後にこの番組では既放送回DVD化が進められて、この回もDVD発売を期待していたが残念ながらラインアップから漏れてしまった。番組冒頭のくもじいによる説明が盛大に間違えている。「中丸町」の文字にも誤記があり、これではDVDにできない。
放送から2年あまり過ぎた頃、現地を歩いてみた。広い川越街道に面して並ぶ建物には独特の気配がある。番組で取り上げられたフォトスタジオに限らず、三角柱型のトンガリ物件がそこかしこに見られるではないか。
※以下の写真は2012年9月撮影
番組取材を受けた建物の隣のビルもトンガリ。
先端を丸めた形のトンガリもある。
道路を渡って向かい側の大山金井町にもトンガリがある。
かなり年季の入ったトンガリも残されていた。
片っ端から「すみませんくもみですけど、トンガリの内側を見せてください」と訪ねて回るくもみと、赤いジャケット姿で大きな分度器を抱えて駆け回り、一軒一軒測定していくトンガリ計測部員を想像すると笑える。
新道はトンガリの母
番組では様々な町にあるトンガリ物件が紹介されたが、ここまでまとまってトンガリが建ち並ぶ地域は多分他にないだろう。道路脇に立てられている住居表示街区案内図を見ると…。
川越街道が周囲の小道群に対して斜めに通っている。街道に面した土地はほぼ二等辺三角形であり、敷地いっぱいに建てられた物件は必然的に三角柱型、すなわちトンガリになる。これは歴史的経緯がありそう。調べてみた。
江戸時代初期に整備された川越街道(当時は川越児玉往還と称していた)は江戸日本橋を起点としているが、実際は日本橋から中山道をおよそ2里北へ向かった板橋宿平尾(現・板橋一丁目付近)の追分から西方向に分岐していた。現在の板橋区役所脇の道路、遊座大山商店街、ハッピーロード大山商店街が旧街道に相当する。近くには幕府の命により開削された千川上水の水路があり、街道とクロスしていた。その地点から100mほどで街道は北西へ向きを変える。
トンガリ集中地域はその屈曲点の南側一帯に相当する。19世紀には北豊島郡金井窪村、同中丸村であった。新政府発足後の1880年、陸軍による測量に基づいた地図が作られた。現在の主要道路位置をあてはめて引用する。
トンガリ地域には「畑」と記されている。台地で水田耕作に適さず、大根などを栽培していたと伝えられる。千川上水や石神井川から遠く、茫漠とした野原だったと想像される。
1889年に施行された町村制により、中丸村と金井窪村は下板橋宿などと合併して「板橋町」の一部となった。1911年に発行された郵便局向けの地図には、板橋町大字金井窪字西原・大字中丸字北裏・池袋字原前などと新たな地名が命名されて、細かい地割番号がつけられていることが確認できる。「池袋」は現在の豊島区域(北豊島郡巣鴨村)のみならず、板橋区域の一部にもまたがる広範囲の地名であった。
多少の凹凸や偏りはあるが、川越街道と概ね直角になるように区画が設定されている。
この時期からほどなくして東上鉄道が路線建設工事を始めたが、トンガリ地域の外縁を回り込むように土地を買収している。同社は東京市小石川区大塚辻町(現・文京区大塚五丁目)-群馬県群馬郡渋川町(現・渋川市)および東京府北豊島郡巣鴨村大字池袋字宮ノ下(現・豊島区池袋本町)-大字巣鴨字向原(現・豊島区南池袋一丁目)の免許に基づき建設を行った。字宮ノ下で字向原方面の支線を分岐させて、板橋町大字金井窪付近に鉄道施設用の広大な土地を確保する計画が迂回ルート選定に影響しているともみられるが、大字中丸や大字金井窪は農業地として一定の力を有していたとも考えられる。東上鉄道は1914年5月に本線の字宮ノ下-埼玉県入間郡川越町(現・川越市)間(※)及び字向原支線を完成させたが、本線の残りに相当する字宮ノ下-大塚辻町間は開通に至らなかった。
(※)同時に川越町から入間郡田面沢(たものざわ)村(現・川越市小ヶ谷)間の支線も完成させている。
熊野神社から一直線
国土地理院で制作している「地理空間情報ライブラリー」Webサイトの「住所から地図・空中写真を閲覧する」で板橋区中丸町を検索すると1919年から2021年まで22種の「2.5万地形図 東京西部」を参照できる。
1919年測量図においてトンガリ地域(板橋町大字中丸・大字金井窪)はただの畑地だが、1929年測量図では碁盤目状に区画整備されていることが確認できる。この間1923年に大震災があり、その復興も兼ねて板橋町域の市街地化が計画されたとうかがえる。
川越街道新道(国道254号線)板橋町内区間の着工・開通年月を具体的に記録した資料はまだ見つけていない。1929年・1931年測量2.5万地形図には記されていないが、1932年測量2.5万地形図に新道がはっきりと確認できるので、1932年開通と推定される。同年10月の東京市域拡張・板橋区発足直前に完成したとみられる。
新道はなるべく直線に作るべく計画されている。既に千川上水沿いを中心に家屋が建ち並んでいた旧道ルートにとらわれず、自動車の大型化や貨物自動車の運転、さらには軍事利用まで想定していたとも想像できる。社寺が最大のランドマークだった時代、板橋町内のルートは「熊野神社から上板橋村字上ノ根(現・東山町)の長命寺までスパッと一直線じゃ!」と決めたのだろう。
鉄道を迂回させた大字金井窪だが、碁盤目状に整備された区画を斜めに横切る形の新道建設は受け入れざるを得なかったと見られる。
この事業により、大字中丸・大字金井窪は新興市街地形成用の土地に生まれ変わった。板橋区発足に伴い、この地域は(旧)板橋町二丁目・三丁目と改称されている。(現在の板橋二丁目・三丁目とは異なる)1934年ごろに発行されたとみられる地図には、ほぼ現在と同じ区画が記されている。
トンガリに歴史あり
前述の「地理空間情報ライブラリー」では1936年から2019年までの空中写真も閲覧できる。無料では低解像度版しか見られないが、できる範囲で追ってみよう。
1936年に撮影された写真ではまだ空き地が目立つ。角地であっても通常の建て方をして、隅を余らせている中小の家屋が多い。当時を生きた世代の人が「板橋と聞いて最初はどこか嫌な感じがした」と述懐していたと思い出す。一般東京市民にとっては治安のあまりよろしくない旧宿場町のうらぶれた風情イメージが強く、積極的に移住したいとはあまり思われなかったのだろう。
このまま市街地化があまり進まなければ札幌郊外の当別町太美や石狩市花畔のような風景になったかもしれないが、1944年撮影写真ではほぼ家屋で埋められている様が記録されている。戦時体制強化により巨大化する東京に飲み込まれてしまった。
戦後の1956年撮影写真あたりから敷地いっぱいに建てて、台形型の鋭角を持つビルがちらほら現れ始める。前掲写真で紹介した平屋や2階建て一軒家の古いトンガリハウスはおそらくこの時代に建てられたとみられるが、無料で見られる解像度でははっきりとわからない。
1975年撮影写真では川越街道に面して屏風型に設計されたマンションらしきビルの姿が認められる。これはトンガリではなく、四角柱をつなぎあわせた形状である。このビルは既に解体されている。
1984年撮影写真以降、トンガリを持つ三角柱型とおぼしきビルや中低層建築が少しずつ増えていくが、低解像度航空写真ではっきりわかるほどに多くなるのは1990年代以降とみられる。
以上「トライアングルプレイバック トンガリに歴史あり」の時間でした。
2023年再訪
2023年9月、この地域を再び歩いてみた。番組で紹介された直角二等辺三角形の建物は健在。今もフォトスタジオとして営業しているかはわからない。
他方古老トンガリの多くは既に解体されて、十数階程度のマンションに変わっていた。新しいマンションは隅を前庭として設計されるケースが多いようで、以前ほどトンガリが目立たない感がする。近年はあえて角まで建てない方針なのだろうか。くもみちゃんにとってはややつまらなくなっているの…かも?
「空から日本を見てみよう」は”映像としての面白さ”を表現することを第一に心がけて制作された番組である。なるべくたくさんのネタを取り上げ、広く浅くスピード感を持って次々と紹介していく。川越街道が”トンガリ・ロード”の趣を呈していることに限らず、「それはどうして?」というところまではあえて踏み込まない。番組の1シーンが印象に残った人が独自に掘り下げてほしいという方針なのだろう。本稿はその”送り手の思い”に呼応するべく執筆を試みた。
<参考資料>
「明治前期測量 2万分の1 フランス式彩色地図」
(財団法人日本地図センター、1996年)
「東京逓信管理局編纂 各郵便局御用 東京府北豊島郡板橋町全図」
(川流堂小林又七、1911年)
「大東京区分図 三十五区之内 板橋区詳細図」
(東京地形社、1934年ごろ)
国土地理院Webサイト「地理空間情報ライブラリー」