五つの”恋駅” 前編
「恋の駅」
日本の鉄道には”恋”の文字が使われている駅がいくつかあると、時折メディアで取り上げられる。印象的な文字や読みを持つ面白い駅名の話題は昔からの定番だが、「恋」がつく駅は神社仏閣の如く、訪れる人が願いをかけるスポットとして機能する側面もあり、より注目されやすいのだろう。
2023年現在「恋」がつく駅は全国に4ヶ所ある。2013年にはその4駅を管轄する鉄道事業者が共同で「恋駅プロジェクト」キャンペーンを繰り広げた。
しかし、さらに時代をさかのぼるともうひとつ”恋がつく駅”が存在していた。ならば本当は5ヶ所だったのか、と問われると、そう単純な話ではないと答えざるを得ない。
「”恋駅”は鉄道の歴史において長い時間をかけて4つまで増えたが、ある時ひとつ消えて一旦3つになり、その後別の場所で新たにできて、また4つになった。5つ同時に営業していた時期はない。」
が正確な経緯である。
私は徹頭徹尾恋愛に縁がなく、人間関係の機微に疎い脳の持ち主で、今さら恋したいとも思わないが、通算5つの”恋駅”全てに行くことができた。もちろんその路線の列車を使ってアプローチしている。全て訪れてみて、”恋駅”は単なる縁起スポットであるのみならず、日本の鉄道のある側面を如実に表していると感じた。
はじめての”恋駅”
本稿では「恋」がつく駅名が命名された順に紹介していく。
日本で初めての「恋」がつく駅は
母恋(ぼこい、北海道室蘭市、室蘭本線)
1935年12月29日開業
鉄道省→日本国有鉄道→北海道旅客鉄道(JR北海道)
室蘭本線の枝線、東室蘭-室蘭間にある。この区間の開業時(1897年)には設置されず、後から加わった駅である。室蘭地域の鉄道建設や駅名変遷については複雑な経緯があるが、ここでは割愛する。
母恋駅訪問
私は1989年10月に訪れた。寝台特急「北斗星1号」に初めて乗車して、生まれて初めて函館以北に足を伸ばした時である。食堂車のビーフシチュー定食が今でもありありと思い出される。翌朝8時38分に降り立った母恋駅は、どんよりとした雲の下にあった。特に寒いとは感じなかったが、人影なく淋しげな駅であった。
当時のフィルムを改めてチェックしてみたら、ほとんど写真を撮っていないと気がついた。駅名標がすでにJR仕様に切り替えられていてがっかりしたせいだろうか。以下の2枚が全てだった。
この駅舎は1940年に建てられた。駅舎内に「地球岬の入口 母恋駅へようこそ」と記した灯台型の案内標がしまわれている。母恋駅は1984年3月末に無人化され、以後簡易委託駅となっている。駅員配置時代には外に設置されていたのだろうか。地球岬は室蘭を代表する観光地で、アイヌ語の「チケプ」(親である断崖)に、地球の球体をイメージできる広々とした水平線景観を重ね合わせた名称である。
母恋駅を去る際に乗車した気動車の写真(9時04分発東室蘭行き)がフィルムに残されていた。
東室蘭-室蘭間は全区間複線であり、長年北海道の産業を支えてきた重要路線だったと伺える。かつては朝夕通勤客であふれていたのだろうか、駅舎の横に臨時改札用のスペースがたっぷりと設けられている。駅舎背後の山に「NHK」の大きな赤い文字。NHK室蘭放送局である。
きっぷなど記念になるものは購入していない。駅舎内部の記録も残していない。以来34年訪れる機会はなく、記憶はもはやおぼろげになっている。
この記事を書くにあたり母恋駅を検索してみたら、多数の訪問記や写真が見つかった。現状に関してはそちらを参照していただきたい。「青春18きっぷ」宣伝ポスターのモデルに使われたこともあるそうで、同じ構図を狙って撮影した写真もいくつか見かけた。近年の駅舎写真を見て比較すると、建物自体は昔のままだが、細かい点に歳月が現れているとわかる。私が行った時には横を向いていた郵便ポストが正面を向いている。
最も大きな変化は自動販売機の右側に「駅弁 母恋めし」の大きな看板が掲げられたことだろう。クチコミを中心として近年旅行者の間で人気の駅弁という。10cmほどのホッキ貝の貝殻にホッキを地元産の昆布だしで炊き込んだおにぎりを詰め、卵やチーズの燻製、ハッカ飴を添えている。完全手作業・1日40食限定で、事前電話予約が推奨されている。
地元のアクセサリー工芸作家夫婦がホッキの貝殻で製品を作っていて、余る中身を食品に転用しようと思い立ったことが起源という。全国郷土料理コンクールで最優秀賞となり、空いていた母恋駅の売店スペースを使わせてもらう形で2000年ごろから販売を始めた。従って、私が訪れた時にはまだ存在していなかった。もちろん当時の時刻表にも記載されていない。
アイヌ語当て漢字のセンス
「母恋」の名は、まさしくそのホッキ貝が由来とされる。アイヌ語の「ポクセイ・オ・イ」(ホッキ貝のたくさんあるところ)もしくは「ポク・オイ」(陰になるところ)が語源という。
北海道や東北北部、かつての樺太南部や南千島にはアイヌ語に漢字を当てた地名が数多くある。時にユーモラスで、時に「なぜ、この字?」と一瞬考えこんでしまう地名はそれだけで旅を盛り上げるネタになる。
北海道各地に日本人(和人)が入植して開拓を始めたのは主に1870年代から1900年代にかけて。当時リーダーの資質を有していた知識層は江戸時代からの伝統的教育を基盤として育ち、それに西洋流の考え方を加えてアップグレードしつつ人格を完成させたと想像できる。漢文・和歌が基礎教養で、目上の者に献身的姿勢で尽くす「奉公」「忠義」を一番の価値としていた。地元のアイヌ古老から土地の名前を教えてもらった際、頭に思い浮かべる漢字にはそのセンスが色濃く反映されただろう。
たとえば
イチャン・ナイ(鮭が産卵する川)→一已(いちやん、深川市)
「やむをえず」は漢字で「已むを得ず」と書く。アイヌ古老から「イチヤム」と聞いた開拓者は「已む」を真っ先に思い浮かべただろう。
ポロ・セプ・ベツ(大事な広い川)→節婦(せっぷ、新冠郡新冠町)
「孝子節婦」の教えを思い出したのではなかろうか。
さらに開拓を始めた時の実感が込められていると思しき例もある。「月寒」(つきさっぷ→つきさむ。アイヌ語で「チ・キサ・プ」我らが木をこするもの、もしくは「チ・ケシ・サプ」丘のはずれの下り坂)「和寒」(わっさむ。アイヌ語で「ワットサム」楡の木の傍ら)などで「寒」の文字を当てているのは、実際にすさまじく寒いと感じていたからと容易に想像がつく。「和寒は『わっ、寒!』ではありません!」とよくネタにされるが、案外真実をついているように思える。
そう考えていくと、「母恋」もまた命名者の実感がこもっているように思えてならない。室蘭の開拓は1870年に旧仙台藩士の移住により始められたというが、地元アイヌから「ポクセイ・オ・イ」と聞いて最初はそのまま発音していても、いつしか「ポコイ」と略され、さらに故郷に残した母を不意に思い出す人が現れて、”母恋”と地図や書類に記すようになったとも想像される。
男性主導社会において「母を恋うる気持ち」はとりわけ尊いものとして位置づけられてきた。たとえあまり関係がよくなくとも”毒親”などとは口が裂けても訴えられなかった。世継ぎを生むことを厳しく要求され、生んだ後は「母性絶対神話」がプレッシャーとなって苦しめられる母親も、それを口にしたら最後と信じ込まされていた。そんな時代に「母恋」の表記はほとんどの人に好感を持って受け止められただろう。
”初めての恋駅”はそれから60年ほど過ぎて、開拓当時を直接知る人がほぼ世を去った頃合いに現れた。市内の通勤客増加に対応する形の新駅開業は、室蘭市が鉄道と海運の結節点から本格的重工業都市に脱皮して、次のステップに進む象徴でもあったのだろう。
母恋駅ではもともと北海道で汎用されていた最低運賃区間乗車券を兼ねた硬券入場券を販売していたが、1970年代の縁起きっぷブームで着目され、売り上げが伸び始めた。1980年代には専門用語で「D型」と称する横に長い形式の硬券にグラビア印刷を施した「母の日記念入場券」が毎年5月に販売されていた。
無人化後は「母恋から東室蘭ゆき」のしおり型縦長記念乗車券に変わったが、JRでは一時期D型硬券入場券を復活させていたという。しかし2019年限りで北海道内の硬券は発行が全て打ち切られている。
十勝の「母恋」
1989年の訪問時には国鉄形式駅名標を撮影できなかったが、後年意外な場所で発見できた。十勝の音更町である。そこに住む鉄道愛好家が自宅をミニ鉄道記念館として開放している。屋内にはかつての鉄道部品が所狭しと飾られ、真ん中には鉄道模型の大きなジオラマ。新幹線開業前に運転されていた東海道線の寝台急行「月光」1等車寝台券など、硬券きっぷのコレクションも充実している。このお宅の玄関脇に母恋駅の駅名標が設置されている。
当時ものかレプリカかは判別がつかないが、フォントは国鉄末期スタイルにほぼ忠実である。とてもきれいな状態ということは、持ち主がこまめに手入れしている証だろう。
しかし、十勝でなぜ母恋?という率直な疑問は残る。たまたま入手できたからに過ぎないのだろうか、それとも人気の駅名だからと着目したのだろうか。
二つ目の”恋駅”
♪恋も二度目なら~で始まる往年のヒット曲を思い出すが、日本の鉄道で2つ目に登場した「恋」がつく駅は
恋ヶ窪(こいがくぼ、東京都国分寺市、西武国分寺線)
1955年2月10日開業
西武鉄道
現在の西武国分寺線は東村山-国分寺間とされているが、1894年から1895年にかけて川越鉄道が国分寺-川越(現・本川越)間に敷設した古くからの路線である。川越鉄道は東京市麹町区(現・東京都千代田区)の飯田町(後の貨物駅)と八王子を結ぶ甲武鉄道(現・JR中央線)の実質的子会社であり、1902年の時刻表復刻本を参照すると川越鉄道の客車は国分寺で甲武鉄道の客車と分割併合を行い、飯田町まで乗り入れていたとわかる。1日8往復で、飯田町から川越まで2時間50分程度だった。
江戸時代の川越は新河岸川舟運の拠点として栄え、幕府の譜代大名や親藩が城主となり、老中など政権要職にたびたび起用された。それゆえ1870年代に新政府が全国に鉄道網を展開させる方針を立てると、東京都心周縁部に拠点を持つ実業家たちが東京と川越を結ぶ鉄道の免許申請を多数行った。そのほとんどが認可されずに死屍累々となる中、1892年に川越鉄道が最初の免許下付に成功した。国分寺起点は東京から見れば相当な迂回ルートであるが、既に営業を始めている甲武鉄道(1889年開業)と資本提携していて、自社の新規建設距離が短くて済むことが決め手となっただろう。
現在東京の北西部から埼玉県南部にかけて営業している大手私鉄路線の多くは、この時代の熾烈な免許獲得競争の勝者が建設したものである。
1906年に甲武鉄道が国有化される際、当初は川越鉄道も併せて国有とする予定だったが民営のまま存置と修正されている。その後紆余曲折を経て西武鉄道の一路線となったが、西武は1927年に都心への短絡ルートとなる村山線(現・新宿線)を東村山-高田馬場間で開通させて、旧川越鉄道の東村山以北と一体化する運用に変更した。(新宿線の名称は西武新宿まで延伸した1952年から使用)東村山駅の高架化工事着工前、国分寺線の線路が小川方面にまっすぐ伸びているのに対して新宿線がカーブしていたのは、新宿線が後から付け加えられた証である。
恋ヶ窪は江戸時代からある村だが、川越鉄道時代はもちろん西武鉄道の管轄になってからも長らく駅は設置されなかった。恋ヶ窪駅の開業は戦後の1955年。周辺の宅地化と通勤客増加による新駅設置だろうか。旧恋ヶ窪村地域ではなく、隣接する上戸倉新田(現・国分寺市戸倉一丁目)に作られたが、付近で由緒ある地名の「恋ヶ窪」を駅名としたのだろう。
恋ヶ窪駅訪問
恋ヶ窪駅は2008年に訪れた。駅ホームは相対式の2面2線。壁面にはライオンズ球団のイメージカラーでもあるブルー系があしらわれている。東京近郊住宅地の駅であり、電車が到着すると多数の乗客が降りて一時ざわめくが、ほぼ集団をなして改札を通り終えると途端に静寂が忍び寄ってくる。
国分寺線はほとんどの区間において川越鉄道以来の単線だが、1968年に恋ヶ窪駅から国分寺方面の一部が複線化された。しかし国分寺駅ホームは1面のみなので、ここで対向列車の行き違いをする運用も多い。おおむね10分間隔で運転されている。
電車は従来の西武線カラーのイエロー。基本6両編成である。西武鉄道では1等車(グリーン車)を運用した実績がないにもかかわらず「クモハ286」など国鉄流の表記をつけている。「ハ」は国鉄の2等車、今の普通車を示す記号である。
2023年再訪
2008年訪問時は駅舎の写真を撮影していなかった。この記事を書くにあたり、15年ぶりに恋ヶ窪駅を再訪した。
幅の広いスペースを取った駅本屋に直結して東村山・本川越方面の1番線、構内こ線橋を渡り国分寺方面の2番線という構造。こ線橋は1986年設置とかなり後年で、それまでのおよそ30年間は改札正面に構内踏切があったのだろう。朝夕通勤客でごった返す情景が想像できる。
写真の券売機右側にはコンビニエンスストアが営業している。かつては駅関連施設だったのだろうか。国分寺方で交差する道路は商店街をなしていて、踏切がある。東村山方には東西連絡歩道橋があり、町の分断を防いでいる。
「恋駅プロジェクト」の時は西武鉄道も参加したはずだが、今回見に行ったら”恋駅”関連の掲示は全く見当たらなかった。当時ホーム壁面のブルー地にハートをちりばめたというが今では色あせている模様。ライオンズ球団選手の写真や名前だけがやたらと目立っていた。ホームページの恋駅プロジェクトコンテンツも削除されている。
西武鉄道は昔から、自社やグループ企業の宣伝が相当に過剰である。内容もいまだにバブル時代的なノリ。ただでさえ目に余る上、近年は普段使いの乗客にとって基本情報であるはずのホーム時刻表掲示をなくして秩父方面特急の大きな広告写真に取り替えるなど常軌を逸している。そこまでやられると秩父や芦ヶ久保、飯能には決して行きたくないと強い反感を覚える。西武の企業体質は関西でいう「ええかっこしい」。バブル時代の成功体験もさることながら、阪急や東急へのルサンチマンが今なお意識下に蓄積されているように思える。昨今沿線には経済的にあまり余裕のない人が大勢住んでいて、その人たちも生活のために日々西武線を使っているなどと、思いを寄せたことさえもないのだろう。改札窓口カウンターにポツリと置かれている駅スタンプのみがかろうじて”恋駅”を伝えていた。
恋ヶ窪分水と姿見の池
もはや時代錯誤になっていることさえ気がつかないほどにタカビー(バブル時代の流行語。高飛車の意)な鉄道会社に文句を言うのは不毛なので、本来の恋ヶ窪村にあるJR西国分寺駅までぶらぶら歩いてみる。住宅地の合間に農地が見え隠れする道を南へ数分歩くと、国分寺線と武蔵野線の立体交差地点に出る。武蔵野線のここから北側(新小平方面)は長いトンネル。南に向けて傾斜地で、視界が開けた先に西国分寺駅がある。
さらに歩くと「恋ヶ窪村分水」の水路跡に行きあたる。詳しい説明板が設置されている。
水はもう流れていないが、17世紀に開削された当時のまま残されていて、貴重な土木遺構になっている。真夏の曇り空の下周囲には鬱蒼と樹木が茂り、どこかただならぬふんいきが漂っていた。
私見だが、徳川氏が江戸を本拠にして250年以上政権を維持できた背景のひとつに「冬に乾いた晴天が続く土地柄」を上手に利用したことを挙げたい。
京都は「千年の都」と自称しているが、湿気の多い土地で夏は蒸し暑く、冬は晴天が少ない。琵琶湖や淀川など水資源は豊富だが、冷暖房のない時代人間が楽に活動できる時期は限られていただろう。”攻めるに易く守るに難い”とも言われていて、南北朝時代は足利幕府側も南朝側も、相手から京に攻め込まれるとすぐに明け渡して近江など近隣に逃げ、頃合いを見て奪い返すことの繰り返しだったという。それは、京の洛中が決して暮らしやすい土地ではなかったことも影響しているだろう。足利政権(室町幕府)の権威が早く衰退したのは義満以降カリスマ的な人材を輩出できなかったことに加えて、京都の地理的な限界も影響したと思う。
対して関東平野は冬の晴天を有効活用できるが、水資源の確保に難があった。徳川氏は土木技術の向上を背景に多摩地区から人工の水路を引くアイデアに思い至り、玉川上水をはじめ数多くの水路を建設させて江戸市中まで運ぶことで、高台の開発に成功した。衛生状態の観点から見てもエポックメイキングだったと思う。
水路跡の公園を出ると熊野神社。閻魔堂霊園が道路に接している。
道は下り坂に変わる。降り切った先に「姿見の池」がある。ここは”恋ヶ窪”の名の由来となった、平安時代末期の武将畠山重忠と遊女夙妻太夫(あさづまだゆう)ゆかりの地と伝えられている。悲恋物語のくわしい経緯は「多摩めぐりブログ」、「ぶらり国・府」などのサイトで紹介されている。
実際の「コイガクボ」は、ライオンならぬカープが泳ぐ「鯉のいる窪地」とも、武蔵国府中に近い「府中(こう)の窪地」とも言われている。
姿見の池は中央線の線路に接している。周辺の開発に伴い1960年代に埋め立てられたが、1998年に国分寺市による再生事業で復活させたという。
公園内は緑地保全地域のため、通路以外は立ち入りできない。紫の花に黄色の羽の蝶が舞い、その向こうに中央線の電車が頻繁に行き交っていた。
公園の中央には古代の東山道武蔵路に関する大きな説明板があり、このお二方も天国から解説に来ていた。
<参考資料>
「停車場変遷大事典 国鉄・JR編」(1998年、JTB)
「JTB時刻表 1989年8月号」
「国鉄全線各駅停車 北海道690駅」(1983年、小学館)
「北海道地名漢字解」(本多貢・著、1995年、北海道新聞社)
「全国鉄道汽車便覧 明治35年版復刻」(2009年、松尾印刷)
「室蘭市ホームページ 室蘭市のあゆみ」
「exciteニュース 2021年1月17日」
その他本文中リンクWebサイト