ひとなつの
「これから幾年かたったあとで ふと、あなたがその名を読むとするならば そのとき、私を、死せるものとして数えてください 私の心は、このアルバムの中に埋められているのです」
ジョージ・ゴードン・バイロン「モオルタ島で、ある記念簿に」『ハロルドの巡礼』
時代最後の季節よりも次の時代で初めて経験する季節の方を忘れがたく切なく思うのは、かつて置き忘れてきて消えることのない思い出に浸ってしまうからだろうか。そんなことを、ふと思っていた。
読みかけの課題本に竹で出来た少し厚めの栞を挟む。冥婚という言葉と共に描かれている鮮明な赤い封筒の図に指が触れる。スーツのジャケットを折りたたんで腕に掛けた。僕は『台湾の風俗史』と表紙に書かれている本を手に持ったまま電車を降り、そうして改札口に向かおうとする。
空から蝉の声が降り注いでいる。駅のプランターに植えられた朝顔が皺を作りながらフェンスに蔦を絡ませている。上着を脱いでもじんわりと染み出してくる汗が僕を苛ませていた。気温が三十度を下回ったとはいえ、僕のよく知る夏の面影がそこかしこに散らかされたままで、そこにあった。
九月ということで、授業が始まっている学校も多いのか少し遠くで制服姿の学生たちの喧騒が聞こえる。時期外れの金木犀の香りが漂っている。青い蝶がひらりと舞い踊っていた。
ふと、目の端で白いワンピースが翻っているのが見えた。髪の片側で結ばれた青いリボンが揺れる。制服の白に紛れて、プラットフォームの向こう側に彼女の面影を見た気がした。少し生暖かい風が吹き抜けると共に、いつかどこかで聞いたことのある声を聞いた気がした。目を擦って彼女のいたはずのところをもう一度眺めてみるが、そこにはもう彼女の姿はなかった。
夏休みに入る前に大学の認知科学の講義で聞いた、クロスモーダル現象なんて言葉が頭を過ぎる。かき氷に赤い液体が掛かっているのを見れば、実際がどうであれそれをイチゴ味だと脳が認識して食べる時に味覚や嗅覚を変えてしまうというもの。良く起こる感覚同士の結び付きを脳が一度覚えてしまうと、似たような経験をした時に勝手に昔の記憶から感覚の情報を補完してくる。
だから僕はきっと、彼女の幻影を見てしまった。彼女の纏っていた香水と金木犀を重ね、彼女の青い蝶のようなブローチと実際の蝶を重ね、病的なほどに白い肌と白いワンピースに白い制服を重ね、そうして彼女の陽炎を見た。未練を断ち切るために僕はここに来たのに、その未練が残響のようにまだ僕の体の中に残っている。待ってるから、なんて声が聞こえたのは、果たして空耳であったのか、あの日彼女が僕に残した言葉が再生されてしまったのか、僕には検討がつかなかった。
改札を出る。青色の歩道橋には所々赤茶色の錆が浮いている。駅から螺旋状に伸びる勾配を下って行く。昨日降った豪雨が木々の枝をしならせ、影が枝垂れ柳のように頭の上に降りかかる。足元には赤い色をした徒花が散り萎れていた。千引き岩なんて呼ばれている大きな岩場を越えて、そうして僕の実家へとたどり着いた。
大学生活も最終学年を迎え、三年と半振りに見る実家は前よりも少し小さく古く見えた。
壁に貼り付けられた蔦の這った電気メーターが静かに針を揺らしている。隣の家との隙間には、見覚えのある少し赤錆びた自転車が置かれていた。フレームには『後月』とレトロポップな字体のネームシールが貼られている。それを見て懐かしさを覚えながら、そのまま実家へと上がり込んだ。
母親に土産物を渡し近況を少し話した後で、二階の自分の部屋へと上がる。家に帰るのは三年振りだというのに部屋には埃一つもなく、僕はそのことに静かに感謝しながら窓を開けてスーツ姿のまま綺麗に敷かれていたベッドに体を投げる。時計の針が動く音が、心音よりも大きく響いている。壁に掛けられた時刻は十五時頃を指し記していた。
開いた窓から一陣の風が吹き抜ける。どこに生えていたのか外から金木犀の香りが運ばれてくる。生暖かい風は僕の部屋で吹き溜まり、輪郭を帯びるように渦を巻いている。風が本棚の中を揺らし、本と本の間に重ねられるように置かれていた、見覚えのない手紙を床へと落とした。ベッドから立ち上がり手紙に手を伸ばそうとすると、背後から声がした。
「日野先輩」
今日プラットフォームで聞いた――いや、それよりもずっと前から聞き馴染みのある声がする。その声はどこか甘くて、それでいて毒を含むように揶揄の意味が込められているように感じた。
「ふふ、無用心ですね」
空気が僅かに揺らいで、扉の前に誰かが立っている気配がする。振り返らないままで言葉を返す。
「男の部屋にたった一人で上がり込むなんて、無用心は夏乃の方じゃないですか」
表情をしつらえて彼女の方に振り向く。
久しぶりに見る彼女は、駅で見た幻覚そのままの姿だった。白いワンピースに加えて、室内であるというのに麦わら帽子を目深に被っている。彼女の目を覗き込むことはできない。ただ、僕の後ろの窓から差す太陽の光を浴びて、麦わら帽子の網から漏れ出した陽光が彼女の顔に爬虫類の鱗のような影を描き出していた。
「わたしが高校一年の時までは普通に上がり込んでたじゃないですか」
あの時日野先輩は大学一年生でしたから犯罪的な絵面ですよ、なんて言葉に、たったの三年差なんだけどな、と返す。それに言葉は返されないが、三年差もある、ですよと表情が何よりも雄弁に物語っている。
僕が中学生のとき彼女は小学生で、僕が高校生のとき彼女は中学生で。そして僕が大学に入ったとき彼女はまだ高校生だった。それはある意味では月と太陽のような関係であり、時計の長針と短針のような関係だった。時計の長針が短針を追っていくように僕たちは歩みを重ね、そうして二つが重なる前に長針が動きを止めてしまった。これはただ、そういう、よくあるありふれた話に過ぎない。
こほんと彼女が咳払いをする。僕は彼女に向き合い、次の言葉を待つ。
「今日は頼みごとをしにきたのです」
「頼みごと、ですか。」
それはとてもとてもささやかな頼みごとなのです。小ささを表したいのか人差し指と親指とで尺を作っているがどう見てもそれは五センチを超えていて言動が一致していない。
「そです。たったの十秒くらいで終わっちゃうことです」
「それは地球時間でのことですか?」
前に『誰も地球時間でなんて言ってませんよ。なんちゃら星の十秒は地球でいう三時間のことですから』なんて言って重労働させられたのを忘れたわけじゃないですからね。そう言った僕に、ええ、勿論ですともなんて言葉が返ってくる。人差し指をくるりと回したあと、彼女は僕にこう告げた。
「家庭教師をしてください」
「前に一度やったことありますけど、それは夏乃にはもう必要のないことでしょう」
「いえいえ。それがどうしても心残りでして」
「心残り、なんて言われると叶えるしかなくなってしまいますね」
家庭教師と言われても何をすればいいんですか? 僕は彼女にそう言う。いえいえ、簡単なことですよ。睫毛を伏せながら軽くそう返す彼女の顔は、言葉とは裏腹に憂いと少しの不安を含んでいた。
「答え合わせです」
彼女の指先ははらりと風で落ちた手紙に向けられていた。
「そこには、あの日の質問と、私の出した答えが書いてありますから」
僕は大きく目を見開いた。僕はそれを知る手掛かりを得るためにここに来て、そうして得られなかったと、そう思い込むことで記憶に蓋をしようとここまで来たのだから。
けれど、甘いようでいて痺れる辛さを含んだ彼女は、それを一夏の思い出なんて綺麗な結晶にはさせてくれそうにもない。震える手で手紙の封を切る。そこに簡素に書かれた文字は、僕の手と同じようにして震えており、けれど確かに一つの答えを書き記していた。
僕は彼女の顔を見る。時が止まってしまったように静寂が世界を支配する。その中で、貴方の答えを教えてくださいと、そう彼女の唇だけが動いている。僕の答えは、とうの昔に、そう三年以上も前に既に決まりきっていた。
月と太陽は、その間にある距離を埋めることは永遠にない。そうではあるけれども、月と太陽が重なっている、そう見える瞬間が存在するというのもまた、事実だ。吐息が掛かるほどの距離へと二人は近づいていく。薄く引いた口紅が見える。彼女の髪が靡いて、片側だけ結ばれた青いリボンが揺れた。そうして僕は彼女に、あの夏に置き忘れてしまった言葉を返して――。
かちりという音がして、時計は十五時十六分を指していた。
気が付くともう日が傾いており、カーテンから焼けるような色をした光が漏れ込んでいた。蝉が泣き止み、鈴虫が切なげな旋律を奏でている。机の上に置いた彼女からの封筒が、夕陽の光を受けて薄紅色に色づいていた。封筒を着飾っていた青いリボンが風に吹かれて揺れている。僕はその手紙を手に取って鞄の奥底へとしまい込み、静かに立ち上がった。
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