水無瀬 綾那
現実へのぼんやりとした上書きのようなもの
眠っている。
日記帳のようなもの
「角、生えてるじゃん」 「…………」 「わ、角抜けたけどまた角生えちゃった。そんな怒らなくてもいいじゃん」 「それが時間潰しのために動画見て待ってた人に向かって言う台詞?」 「褒め言葉だって」 「どこが」 「ワイヤレスイヤホン付けてる姿って格好いいじゃん」 「……そう」 「バビルサみたいで」 「バリキャリみたいって言いたいにしては噛みすぎじゃない?」 「いや、バビルサみたいで」 「突然意味不明な古代ギャル用語みたいな単語言ってくるの何」 「豚に鹿って書くらしいよ」 「まさか
『恋は日焼け止めを忘れて赤く剥けた皮膚に似ています』 それは薄羽蜉蝣の翅のようにとてもか細い声だった。 『だから私は貴女に一つ、そう、たった一つ聞いておかなければならないことがあるのです』 その言葉は人に投げかけられたものと言うには心許なく、わたしのところまで届かなかった声が彼女自身の周りに靄となって留まり続けているように見えた。 『貴女が私のことをどれくらい嫌いか、それをお聞きしても良いでしょうか』 そう問うた彼女に、わたしは言葉を返す。彼女は少し伏し目がちに『そうで
私は人の気持ちが分からない。そして、そうであるならばなおさら言うまでも無く、彼女の気持ちを分かろうとすること自体が酷い無駄足で、どうしようもない徒労であったのかもしれない。 分かりあおうとする姿勢自体が重要なんだなんてことを言われてしまったら、私は渇いた笑いと共に、そうだねと言って会話を打ち切るしか術を持っていない。人間をパズルのピースに例えて、欠けた穴を埋め合わせることのできる者が何処かにいるのだろうなんて言う人も居るけれども、その喩えに則って言うのであれば、私と彼女の
こんな夢を見ました。 私はあつうみが崎というところにいました。かつて燃え盛る山々が地を焦がしたところ。燃え尽きた後も地中に残った熱源によって熱泉が吹き出していた、そんな熱い海があるところ。言葉に出来ない何かを抱えたままふらふらと行き着く先としては、どこか重なる思いがある、そんなところ。夢の中でその場所へとたどり着いたのは、夕刻も深く夜に差し掛かった頃合いのことでした。 空は既に深い紺色をしていました。薄闇の中で、けれど光のない建物ばかりがより黒く仄暗く立ち現れて、紺色だ
こんな夢を見た。 それはとても冷たい、夢であるのならば直ぐにでも覚めそうなほど鋭い凍てつきをもった夜だったように思う。私は夜半の新世界地区に立っていた。薄暮時を彩る飲食店のサイケデリックなネオンも、世相を反映してか鳴りを潜めており、暗闇にただその身を沈めている。街並みは昔と変わり、今では有名店が陣地取りの遊びのように互い違いに店を出し始めており、どこかで見たことのある、既視的で日常的な風景へと画一化されてしまったような心持ちがする。ただ、夜の闇がひたひたと迫ってくるような先の
20□□年 ■月 □日 その日は確か海の日であったと記憶しています。連休であるということで、□□は私に『どこかへと出かけませんか、■■』と、そう言いました。私はその言葉に唯々諾々として従い、そうして『せっかくどこかへ出かけるのであれば遠出をしましょう』という□□の意向に倣って京都へと旅に出ることにしたのです。ふふ、海の日であるというのに、海という存在と縁遠いと言ってもよい京都に赴くというのは中々道理に背いていて面白いことのように感じます。 長引く梅雨前線と早駆け
はらはらと舞い落ちて、そうして降り積もって。けれどやがて、その堆積物は宵闇に飲み込まれるようにして跡形もなく消えていく。曇った窓硝子からは、少し季節外れの粉雪が車道の黒を淡く濡らしているのが見えた。 淡雪が窓硝子の外側に水滴を散らしている。僕は外に出て、扉にClosedの標識を下げ、『喫茶Quelle』と書かれた電飾看板に点灯しているランプを消した。 少し冷たさを孕み始めた風に指先を悴ませながら、後片付けを始める。しつこい汚れの付いた皿をスポンジで洗った後で、食洗機に掛
「これから幾年かたったあとで ふと、あなたがその名を読むとするならば そのとき、私を、死せるものとして数えてください 私の心は、このアルバムの中に埋められているのです」 ジョージ・ゴードン・バイロン「モオルタ島で、ある記念簿に」『ハロルドの巡礼』 時代最後の季節よりも次の時代で初めて経験する季節の方を忘れがたく切なく思うのは、かつて置き忘れてきて消えることのない思い出に浸ってしまうからだろうか。そんなことを、ふと思っていた。 読みかけの課題本に竹で出来た少し厚めの栞を
そんな生物は居ないよ、と確か医学部に在籍していた当時の彼氏がそう言っていた気がする。知ってるよ、だから僕はそういう生物を自称するのさ。自分の胸許まで伸ばした髪を手櫛で梳きながらそう答えた。彼は分からないものを分からないまま許容するように曖昧に笑っていた、と思う。何もかも柔らかくしてしまうような、そんな笑顔を見ながら、君はそれでいいんだよなんて柄でもなく零した。あれから五年ほどが経ってしまったけど、彼は今元気でやっているだろうか。いつまで経っても貴女は貴女ですよ、なんて生温く
夏なので読書感想文でも書こうと思います。 対象にする作品は本格ミステリ大賞受賞作ですが、夏らしく、あるジャンルのホラーテイストを含んでいます。乙一先生著で作品の名前は『GOTH』。端的にいうと、人間の振りをするのが上手い「僕」と白い肌に黒い服と髪をした人形めいた少女の話です。言葉にすると大分陳腐にはなりましたが、乙一さんの筆致と構成力で、似たような触れ込みの作品に追随を許さない薄ら寒い出来に仕上がっていると思います。 今回はこの『GOTH』にかこつけて何となく思ったことを書
『わたしは、青という色が好きではなかった』 『落ち着く色だ、知的な色だなんていくらでも取り繕うことは出来るのだろうけど、わたしにとって青色は停滞を示す色でしかなかった』 『青。それはわたしの街を彩る片割れ。赤銅とマリンブルーに包まれた風景はわたしの心象風景に深く根を下ろしてしまっていて、外の世界を知った今でもわたしを蝕んでいる――』 次の駅を示す車内放送が流れ、わたしはそこで筆を止めた。膝の上に乗せていた携帯型のデジタルメモを鞄にしまい、スカートの皺を伸ばしてから定期券の
天からは幾つかの糸が垂らされていた。しっかりと結われた頑丈な造りでありながら、その途上で無残に千切れているものもあれば、(『参考までに教えておくと、あれが君が最後に使った糸だよ』)、細すぎて今にも捩じれ切れそうなものもあった。(『あの糸はこの前よりも遥かに細くなっているねぇ』) もしも仮に、描写における逆説的な物言いをするのが許されるのであれば、そこにはそのような無用な糸しか存在しなかった。(『昔はそのようなことなど無かったし、君の傲慢さが招いた結果なのだからそれを甘受しな
その日は、ひどい雨だった。気圧が低くてただでさえ気分が上がらないというのに、横殴りの雨は制服をじっとりと濡らしていた。七月も末であるというのに、梅雨が開けずじめじめとした天候が続いている。ハンカチで水気を吸い取り、胸許の紺色のリボンを整えながらいつものようにホームで電車を待つ。世界はどこまでも暗く青く澱んでおり、気持ちも深く沈んでいた。一つだけ幸運だったのは、今日は土曜日ということもあり人影もまばらで、乗車してから二人がけのボックスシートに危なげなく座ることができたというこ
中学時代の夢の一つに『人生の絶頂期において(予め依頼をしておいた殺し屋に)射殺されたい』というものがあった。人生を幸福なうちに締めくくりたい。絶頂期を過ぎた後の失落が堪えられないなどと完璧主義を嘯き、かといって積極的な自殺はしたくないから無意識のうちに命を刈り取って欲しいというポジティブなのかネガティブなのかよく分からない結論へと終着した結果である。「人生の絶頂期」などという主観の大幅に混じる要素判断を人任せにする辺り実に無計画である。ちょっとした成功を収め小金持ちになって
『繰り返しになるがね、きみ、ここは気軽に遊びに来る場所なんかじゃあないんだよ』 いつか、どこかで聞いたことのある、鈴の鳴るような声で彼女は言った。 『全く。生きながらにして死んでいるなんて、きみは本当に難儀な生き物だね』 身に覚えのない、けれど確かに耳朶に響く馴染みのある言葉。 『今日は一段とどろどろとして酷いものだね。その様子では会話すらも覚束ないようだし早く元の場所へと帰りたまえ。あぁ、「また来てくれ」だなんて言いやしないよ』 ぱちんと何かが鳴る音がして、ただでさえ
「貴方に呪いを残す事にしました」 紫陽花で青白く染まる階段を下りながら、貴女は私の方を振り返ることも無くそう言いました。たたらを踏んで青く色付く前に枯れ落ちた花がかさりと音を立てます。私は呪いという普段耳慣れることのない言葉に、愚かしくも同じ語句を反芻して貴女に問うことしか出来ませんでした。 「ええ、呪いです」 口の中でその言葉を慎重に転がすようにしながら呟き、そうしてゆっくりと貴女は私の方を振り向きました。貴女の顔は夕闇の逆光の中で輪郭を失ってしまっており、今となっては