結花

 彼女の姿が、見えた気がした。満開の桜の木の下、黒色に染め直した髪をなびかせて、艶やかな光沢を残した真新しい黒色のビジネススーツに身を包んでいる。そんな、彼女の姿が。

「ねぇせんせ。桜って咲く前が一番美しいと思うんだよね」
 あの日も、今日と同じようにぼんやりと空を眺めていた。空からはらはらと零れ落ちてくる花びらを、春先のうららかな日差しに透かして見る。開花予想は今三分咲きだ、なんて言っていたけれど、実際の所はまだ一分咲きくらいに過ぎないだろう。まだ結んだばかりの花が強い風にあおられて手折られていくのを、ただ見ていた。
「『花は盛りに』……んでえーっと……『月は隈なきをのみ見るものかは』……?」
 少したどたどしく、そして何故か勝ち誇った顔をして、そう彼女は言った。
「たしかそんな言葉を聞いたことがあるっすよ」
「『雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し』か。先週やった徒然草の第百三十七段だな」
「あれ、そうだったかな。寝てたんでうるおぼえなんすよ」
「授業はちゃんと聞いてくれ」
 あはは、なんてお茶を濁すにしてはあまりにも適当な返しをされた。
「ま、そんな訳であたしは花を付ける前の桜が好きなんすよ」
「『咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ』……か?」
「そそそ、知らないけど多分それっす。まぁ多分それ言った人と好きな理由は違うすけどね」
「好きな理由?」
「あの桜の木、見てください」
 さっきまでぼんやりと眺めていた桜の木が指さされる。
「花を付ける前の桜は、空の色の変化で何にでもなれると思うんす」
 夕刻ということもあり、少し薄い群青が、白い淡いを作りながらグラデーションのようにして下からオレンジに染め上げられていた。そうした色の欠片たちは、黒々とした木の幹に張り付いて、まるで花びらの群れのようであった。
「今は青とオレンジでまばらですけど、昼には青い花を付けて、夕方にはオレンジの花を付けて。そして夜には黒い花をつけるんです」
 そういった彼女の言葉には、どこか憧憬というものが含まれていた。
 彼女は、この前学校で配った進路相談表を白紙で出した生徒の一人であった。何にでもなれる、それは裏を返せば、何かになることで自分の持っていた他の道への可能性が閉ざされることでも、ある。
「お前は、何になりたいんだ?」
 空からはらはらと零れ落ちてくる花びらが見えた。その花びらは彼女の着ている白と黒のストライプと重なり、消えて、見えて、消えて、見えてを何度か繰り返したあと、地面へと舞い落ちた。
「さぁ、それは分からないす。ただ、自分の持っている色だけは増やしたい、なんて思うんすよ」
 そういって振り返った彼女の手には、どこから出したのか大学進学、と大きく書かれた進路相談表があった。

 何かを見るたびに、何かを聴くたびに思い出す人がいる。私にとって、桜というものが彼女を思い出す引き金となっているのだろう。あれから彼女がどう変化して、どういう花を咲かせたのかは知らない。ただ、あれから四年が過ぎて、大学を卒業してどこかに就職した彼女の姿が浮かんできてしまったのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼんやり職員室の窓から見える桜を眺めていると、ふいに肩を叩かれた。
「せーんせ。お久しぶりっすね」
 そう言った彼女の顔は、あの時と少しも変わらず、まるで満開の桜のようにほころんでいた――。

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