第一夜

こんな夢を見た。
それはとても冷たい、夢であるのならば直ぐにでも覚めそうなほど鋭い凍てつきをもった夜だったように思う。私は夜半の新世界地区に立っていた。薄暮時を彩る飲食店のサイケデリックなネオンも、世相を反映してか鳴りを潜めており、暗闇にただその身を沈めている。街並みは昔と変わり、今では有名店が陣地取りの遊びのように互い違いに店を出し始めており、どこかで見たことのある、既視的で日常的な風景へと画一化されてしまったような心持ちがする。ただ、夜の闇がひたひたと迫ってくるような先の見えない感覚はまだこの場に染みついているように感じた。

狭く暗い路地に人が立っている。ファーの付いた紫のドレスを着た、呼び込みの女性。決して若いとは言えない風貌である。その佇まいは長年ここで過ごしていたのであろう存在感を漂わせていたが、頼りなさげな街灯の光は、彼女の影をどこかぼんやりと揺らめかせていた。その人は私を店へと誘おうとするが、私はその艶やかながらどこか諦念の混ざったような間延びした声を置き去りにして歩を進める。そうしてたどり着いた先は、新世界国際劇場と呼ばれる場所だった。

新世界国際劇場は1950年から興行が開始された映画館である。この場所には、二つの異なる空間が併設されている。新世界国際劇場と新世界国際地下劇場。どちらも入場料さえ払えば三本の映画を見られるという点は同じであるが、前者は洋画、後者は成人映画と映している対象の差は大きい。

劇場を見やると、その週に上映する映画のピンク女優の絵看板が――それこそ都心で出そうものならば人権団体に訴えられ、即撤去の憂き目に合いそうな看板が――夜の闇の中で、下から光を受けてひどく艶めかしく見えた。そのピンク映画の女優に見下ろされながら、軒下にある自動券売機で券を購入する。軒下にある二台の券売機の片方には、この新世界には似つかわしくない学生と思しき女性がいた。どうしてここにという疑問が駆け巡る時間も無かった。無論、新世界国際劇場と新世界国際地下劇場の券売機は別々のものであるからであり、この女性がどちらの観客であるかなど言うまでもないことであった。そしてまた、私がどちらの観客であるかということも、また言うまでもないことであった。

私は素知らぬ顔をして券売機で券を買う。あの女性はこちらを見て何か思っていたりしないだろうか。オールナイト800円。やはり広義的な意味での公衆においてこのような行為を働くというのは道義に悖る行為ではないのか。財布から取り出した1,000円を入れる。なぜ新世界国際劇場よりも新世界国際地下劇場の券売機の方が入り口に近いところにあるのだろうか、券を買い終わった女性が私の後ろを通って――すなわち私に向けられる視線が存在するかどうかを知覚することはできない――劇場の入り口へと進んでいく。学生割というものも存在はしたが、どうしてか昼にしか適用することが出来ないらしく、夜という空間においては人間の区分など攪拌されてしまうのだろうな、などと取り留めもない考えが頭を過る。私は決して取り乱しているという訳ではないのだが、深呼吸をして彼女の後に続いて入り口へと進んだ。

外装の古さから想起される通り、劇場の受付はやはりどこか年季を感じさせる場であった。受付で券を差し出す。半券式であったので片方の券を受け取ろうと手を伸ばすと、受付は両方の券をまとめた券の束へと無造作に差し込んだ。私の手は宙を彷徨ったまま下ろしどころが分からず、遣る瀬無い気持ちのままそのまま地下へと伸びる階段を下っていく。


その空間は、世相を反映してという訳でもなく、ただそのものの持つ性質としてどこまでも静的であったのを覚えている。夢を見る直前に読んだTuanの『空間の経験』が思い出される。「音のない空間は、そのなかでどれほど次々と活発な動きがあろうとも、双眼鏡を通して出来事を見たり、音を消してテレビの画面を見たり、新雪が一面に降り積もった町にいたりするのと同じように、静寂で死んだような感じをあたえるだけなのである。」

ちりとりと小さなほうきを持ち、ぱたぱたと形だけ掃除をしに来る清掃員。容易に付かず、さりとて容易に消えず、間隔を置いて明滅する電灯。定められた人形のように、通路を同じルートで行ったり来たりする高齢者。暗闇の中で赤黒く光る非常出口の看板。これらのものは言語にすると動的な要素を持ち合わせていながら、その実どこまでも静的で、空間としての場はどこまでも静寂で死んだような感じを与える場であった。その場において最も音を支配していたのは、重低音でその駆動音を掻き鳴らす室内空調機であった。

映画が始まる。上映されていたのは『怪談回春荘――こんな私に入居して』という作品であったような気がする。映画が始まったにも関わらず、音声は室内空調機よりも遥かに小さく聞き取れることはない。そうであるにも関わらず観客の誰も身じろぎ一つしない。だがよく考えればこれは成人映画なのである。細かい音声を聞くものではなく雰囲気を感じ取るものであるのだろう――などと、そんなことを思ったのが運の尽き。どこまでも抽象派が意識された――作品に使われている技法だけではなく作品のモチーフは何かと問われた時に「抽象派」という答えが返ってくるような作品だったのである。大まかな描写を全て書き出したところで到底理解には繋がることはないだろう。半裸で地下道にいる男女。自慰に耽る女。男の下半身から比喩表現ではなく発射されるロケット花火。殺人。胸像になって空へと飛び去る男。これがその映画の全てである。あの時確かに私は夢の中で夢を見ていた。

こじんまりとした画面に展開されていくシュールレアリスムとは裏腹に、場内はどこまでも静まり返っていた。それは映画の最後まで何も変わることはなく終幕を迎えた。それは次に上映された『やりたがり』という、表題がその内実全てを表しているような作品においても同じであった。響き渡る画面内の女性の嬌声も、静的な空間においてどこか空虚なものとして小さい箱の中で反響していた。私はどこか気味の悪さを覚え、三本目の作品を見る前に劇場の外へと踏み出そうとして、そうして階段を上るところで目が覚めた。


これは後天的に獲得された知識であるのだが、この空間は、同性愛の者たちが集う盛り場としての性質があったことがあるということを知った。どこまでも性的なものを暗示させながらどこまでも静的でアンバランスだった空間は、重層的な連なりがあるものであり、静謐が溢れ出る熱情というものをどこまでも覆い隠している場であった。私はその静寂の中に孕む熱情をとうとう知ることのないまま夢から離れてしまったという、ただそれだけの何の変哲もないつまらない終わりを迎えていたに過ぎないのだった。

夢とはそういうもの、見たいと思うものは見ることができるが、そもそも知覚していないものは見ようとしない。いや、見ることができないのである。

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