薔薇と紫陽花

 その日は、ひどい雨だった。気圧が低くてただでさえ気分が上がらないというのに、横殴りの雨は制服をじっとりと濡らしていた。七月も末であるというのに、梅雨が開けずじめじめとした天候が続いている。ハンカチで水気を吸い取り、胸許の紺色のリボンを整えながらいつものようにホームで電車を待つ。世界はどこまでも暗く青く澱んでおり、気持ちも深く沈んでいた。一つだけ幸運だったのは、今日は土曜日ということもあり人影もまばらで、乗車してから二人がけのボックスシートに危なげなく座ることができたということだろうか。
 そう、今日は土曜日。進学校を自称するわたしの学校においても、流石に土曜日に授業は存在しない。休日に活動する部活に参加している訳でもない。何も予定がなければ家でのんびりと映画鑑賞でもしていたところだっただろう。しかしそう上手くいかないのが人生の辛いところである。授業でもなく部活でもなく、さりとて図書室で自習するなんて高尚な芸当をこなすわけでもなく、それでも学校に向かっているのは、ひとえにわたしが生徒会などという労働組織に所属しているからであった。
 生徒会役員なんて何もわたしがなりたくてなったわけなんかじゃない。生徒会長の指名ですべての生徒会役員が選ばれる、なんていういかにも自称進学校らしき強権制度によって所属させられているだけにすぎない。
 とはいえ生徒会の活動は内申の向上に繋がるというプラスがあるのもまた事実である。周りからよく見られるに越したことはない。そしてなにより、休日出勤になってしまったのも、月曜日までに仕上げておかなければならない合同学園祭の書類を生徒会室に置き忘れてしまった、なんていうわたし個人の過失である。ただでさえ生徒会役員にまとまりがなくて進行が遅れているのに、月曜日の放課後に共催先の学校の生徒会との初会議があるからこれ以上遅らせることもできない。お相手の星仙女学院の方が優しい人であればいいけれど。全くもってままならないことだわとこぼし、ため息をついた。
 わたしの駅の最寄りから学校のある駅までは三十分ほどの時間を要する。学校に通うごとにそれだけの時間が消費されるだなんて有意義ではないわね、なんて思いながら、鞄の中からワイヤレスの小型イヤホンを取り出して耳に掛ける。これでも一応生徒会の一員ですもの、電子機器を持ち込まないという校則を守っているように見せるに越したことはないわ。校則に引っかからない程度に肩まで伸ばした髪をかき上げて、イヤホンを隠しながらそう嘯いた。
 車窓を眺めながらWalkmanのシャッフル再生のボタンを押す。優しく流れ出すハーモニカの音とそれを低音で支えるピアノの音。Carpentersの”RAINYDAYS AND MONDAY”だ。今日は月曜日ではないけどなんて今の状況に合った曲なのかしら。曲の状況とは少し違うけれど、気が滅入っているというのは確かだわ。
 曲に聞き入っている間に、電車はちょうど目的地の半分のところまで来たようだった。休日ではあるけれど、人がある程度乗車してくる駅。少し騒がしくなるのかしら、それはますます憂鬱なことだわなんて思いながら、ふと入り口にところへ目をやると、わたしとは対称を描くようにしてその少女はそこに在った。
 いや、制服を着ているから少女という呼称をしてみたものの、顔立ちはひどく大人びており、少女というより女性と呼称したほうが適切であったのかもしれない。目を惹いたのは、今日のような曇り空の下でも照り映えるような赤色であった。服の白を基調としながら胸許に赤く縫い止められたリボンは、野に鮮烈に咲く薔薇を想起させるものであった。黒色のヘッドフォンが薔薇を縁取る輪郭のようにして、彼女の存在をより一層鮮明にしている。わざわざ座席が空いているにも関わらず、扉にもたれかかって外を眺める姿は、違う人がやれば滑稽に映るに違いなかったが、ひどく様になっていた。その色鮮やかな有様に見惚れている私の思考をかき乱したのは
「おや、陽花さんではないですか。お隣失礼しますよ」
 なんていう無粋にも程がある声だった。まさか自分の頼みが断られるなんて思っていない、傲岸不遜で気障さが鼻につく声の主なんて、一人しか思い当たらない。
「きみも生徒会に用事ですか?」
 生徒会長の青池央。つまるところは、わたしが雨の日にわざわざ書類を取りにいかないといけなくさせたそもそもの元凶である。
「ええ、そんなところよ」
「奇遇ですね。僕も生徒会に書類を忘れてきてしまったのです」
 その言葉は、きっと嘘だ。学校に来る用事はあったのだろうけど、休みの日まで生徒会の業務に勤しむほど生徒会長は勤勉ではない。それが直ぐに分かってしまったのが、わたしと生徒会長とが本質的にある程度のところまで似通っているという事実を認めなければならないようで癪だった。
 別にすべての人間にわたしのことを分かってほしいなんて言うつもりはないけれど、生徒会長は、どこまでもわたしのことを表層でしか見ていない。いや、それはわたしに対してだけではなくきっと誰にでもそうなのだろう。表層しか見ず、表層しか見せない。けれど、その表層は食虫花のように綺麗に取り繕われていて、きっと深みにはまってもう戻れないというものにのみ、本性を晒していく。
 彼にとってきっとわたしは次の虫なのだろう。表面上の従順さとある程度の可憐さだけで標的にされてしまったもの。ああ、それは。紫陽花をハーバリウムに飾り付ける時のように、一つ一つの花弁をばらばらにして。そう在るのがもっとも美しいのだと、綺麗なところを綺麗なものとしてだけ抜き取っていくような、そんな行為だ。もしも囚われてしまったのならば、どこまでも解体され、可憐さを演出する道具へと成り下がる。現生徒会副会長である、わたしの友人を『剪定』した時も、果たしてそうだったのだろうか。
「では、一緒に生徒会で作業でもしませんか?」
 ガラスケースに仕舞われた鑑賞品を愛でるような、そんな猫撫で声。学校で手出しをすることはないだろうし、ここで逆らっても事態がより面倒になるだけ。あと任期も半分くらいなのだから、それまでの辛抱だと割り切るべきだろう。
「ええ」
 分かったわ――と続けようとした時、話をしているわたしたちにふっと影が差した。
「陽花」
 わたしの名前を呼んだのは、聞き覚えのない声だった。ややハスキーで低音な艶やかな声。その方向へと振り向くと、先ほどの鮮烈な女性が目の前に立っていた。いつの間にか付けていたヘッドフォンを首に掛けていた彼女は、やれやれとでも言うように首を大仰に振りながら続けた。
「今日は生徒会の仕事を早く終わらせて、わたしと遊ぶ約束をしていたじゃないか」
「え、ええ、そうだったかしらね」
 突然わたしの名前を呼んできてあまつさえ約束があるなんて言い始めた、初対面のはずの彼女の勢いに押し切られるように、わたしはぎこちなく頷いていた。
「……きみは?」
「私は花が手折られるのを見ていられない、そんなただの陽花の友人さ」
 一オクターブ下がった状態の生徒会長の問いかけに彼女はさらりとそう返した。状況を飲み込めないまま、車掌が学校の最寄りである駅の名前を告げ、そうして何故かわたしは彼女にエスコートされるように手を取られ下車したのだった。

 駅に着くと気まずさ故か、周りの目を気にしてか、では僕は先に行って生徒会の鍵でも開けてきます、と生徒会長は足早に駅から去っていった。そんな生徒会長をにこやかに見送った後で、彼女と横並びの状態で学校へと歩き出した。
 どうしてわたしの名前を知っているのか、どうして他校の生徒がそのままわたしの学校に向かっているのか、なんて質問が幾つも頭を駆け巡ったが、赤色の傘をくるくると回し上機嫌で鼻歌を歌う彼女を見ていると、質問を切り出すことなんて出来なかった。そうしてそのまま無言の状態が続く。雨音と彼女の歌う鼻歌だけがそこに在った。
 道路脇に植えられた紫陽花の花が露を受けて揺れる。それを見てなのかは分からないが、彼女は振り向きながらわたしに言った。
「きみは紫陽花のような人だね」
 向日葵のような人。蒲公英のような人。薔薇のような人。そのような表現は聞いたことがあるけれども、紫陽花のような人とは一体どういう人のことだろうか。紫陽花の花言葉が何であったかは思い出せない。紫陽花の性質――強いてあげるなら、その土地の成分によって色を変えるというものだろうか。さっきの車内であったことと関係があるとするのならば、周りの影響を気にしながら八方美人のようにして生きているということなのかしら。
 そう答えると彼女はくつくつと笑った。それはそれで染めがいがあっていいじゃないか、なんて言いながら、きみはもっときみがどういう人物なのかの自覚を持った方がいいよと続けた。いやなに、私がきみを紫陽花だと例えたのは別に理由があってね――。
「『装飾花』という言葉を知っているかい?」
「知らないわ」
 首を振るわたし。やれやれきみは生物の授業を真面目に受けていないのかな? 先生がレクチャーしてあげよう、なんて言いながら説明を始めた。
 紫陽花には、二つの花がある。生殖を行う両性花とその機能を補助するために、他の生物を誘引する装飾花。目立たない前者と彩り豊かな後者。奥深くに潜んだ本性と、それを覆い隠す美しい虚飾。『秘密は女を美しくする』なんていう言葉があるけれども、そのあり方はまるできみのようだ。
 ……わたしは貴女にそんな面を見せたつもりもないけれど。そう返したけれど、動揺を上手く取り繕えていただろうか。わたしがどう思っているかなど一切気にしていないかのように、『目は口ほどにものを言う』と彼女は返した。きみのたおやかな虚飾的所作もまた美しく惹かれるものもあったけど、一瞬だけ見せた彼を見る剣呑な目にこそ痺れてしまってね。だからこそ私はおせっかいにもきみに声を掛けたんだが。そう言ってくつくつと彼女はいじめっ子のように笑った。
「わたしの両性花を、そんなに見たいのかしら」
 挑発めいた彼女の言葉に、わたしの口はいつの間にかそう動いていた。朱に交われば赤くなる。そんな言葉があるけれど、鮮烈な薔薇の赤に一度交わってしまえば、紫陽花はもはや青ではいられず、その地金を晒すことになる。
「それは魅力的なお誘いだけどね」
 そんな熱を帯びたわたしの言葉を冷ますように意地悪く彼女は言った。
「もうすぐ学校の中なのだから、今は装飾花をこそ見せるべきじゃないかな」
 叙情も過ぎればただの病気よ。取り繕うようにそう言ったわたしの言葉に彼女は苦笑を返した。

 下駄箱を過ぎ、階段を上り、生徒会室に到着する。冷房の少しひんやりとした冷気が肌に伝わる。どうやら生徒会に生徒会長は居ないようだ。職員室で用事を済ませてきますとの書き置きがあった。置き忘れた書類を手に取って確認をしていると彼女が後ろから覗き込んでくる。
「おや、二日前というのにその書類の空欄をまだ埋めていなかったのかい」
「仕方がないでしょう。わたしたちの生徒会は無理やり集められた寄せ集めで、仕事に意欲もあまりないのだもの」
「やれやれ。これでは先行きが思いやられるというものだね」
 彼女の言葉に幾つか引っかかるものがあったものの、それが頭の中で形になる前に彼女はわたしにこう告げた。
「自己紹介が遅れたね。星仙女学園生徒会長の玄野有望だ」
『きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ』なんて一節が星の王子様にあるけど、私ときみも短くない付き合いになるのだから、そこのところよろしくお願いしたいものだね。そう言って彼女はくつくつと意地悪そうに笑った。


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