トゲナシトゲアリトゲトゲ
そんな生物は居ないよ、と確か医学部に在籍していた当時の彼氏がそう言っていた気がする。知ってるよ、だから僕はそういう生物を自称するのさ。自分の胸許まで伸ばした髪を手櫛で梳きながらそう答えた。彼は分からないものを分からないまま許容するように曖昧に笑っていた、と思う。何もかも柔らかくしてしまうような、そんな笑顔を見ながら、君はそれでいいんだよなんて柄でもなく零した。あれから五年ほどが経ってしまったけど、彼は今元気でやっているだろうか。いつまで経っても貴女は貴女ですよ、なんて生温くて低音火傷してしまいそうな言葉を掛けてくれた、そんな優しい彼は。
自分の青褪めた唇から零れ出す紫煙の中に、ふと、そんな戻れない昔の思い出を見ていた。
「貴女がそんなことをする人間だとは思いませんでした」
どこかで、耳馴染みのある、世界が鈍く壊れる音がしていた。
少し立て付けの緩んだドアを開ける。甘ったるい匂いがつんと鼻につく。限りなく原液に近いカルピスが希釈されないまま排水口に垂れ流されていた。僕はそれを水で流さないまま、道中のスーパーで買ったビールの残りを流して上書きをした。白くどろりとした液体に黄金色の澄んだ液体が分けいって、扇状の跡だけが染みのようにそこに残っていた。ため息をつきながら肩にかけた鞄を下ろし、下ろし立てのスーツも脱がず化粧を取らないままベッドに横たわった。
スマートフォンのバイブレーションが鳴る。今日会った後輩からのメッセージ。今日は楽しかったです、なんて絵文字たっぷりの文言に淡白に返信をする。これまでの人生で自分よりも歳の低い人と付き合ったことがないから、なんてくだらない理由で決めた付き合いは当然のことながら上手くいくはずもなく、こうしてカレから送られてくるメッセージは、どこまでも目を滑っていく。
こうして思えば、僕はいつも、何かの属性を纏った誰かがどうしようもなく好きだった。アレは何個前のカレシだったか忘れてしまったけど、たしかバイトの先輩だったはずだ。
カレが休憩中にスタッフルームで燻らせる紫煙が好きだった。未成年の僕がいるのに、気にせずに隣で吹かす無遠慮さも好きだった。僕は煙草が嫌いですから、なんて言葉に、そうか、俺は煙草が好きだからな、なんて的外れな答えを返してくるところも好きだった。
そういうところが好きで付き合って、そうしてある時そっぽを向きながら、お前煙草苦手なんだろ、じゃあ止めるわなんて言いながら言ってきたとき、急激に沸き立っていた血が冷めていく感覚があって、気付けば僕たちは別れてしまっていた。彼のことが忘れられない、なんてことはないけど、彼の残した匂いだけが忘れられなくて、僕は今でも同じ銘柄の煙草をくゆらせている。
スマートフォンのバイブレーションが鳴る。メッセージの末尾に付けられた猫の絵文字だけが、オレンジの毒々しい色味を帯びて目に入ってきた。
猫か犬で言えばどちらが好きですか、なんて質問に猫だよと返したばかりに喜々として送られてくる。別に好きでも嫌いでもなくて、ただ無垢な振りをして甘えてくる犬が嫌いなだけだった、なんて思うと自然にカレのことを好きになれない理由が分かってしまった。
たしか就活の時、自分を動物に喩えるならなんですか、なんて聞かれて答えたのが猫だっけ。当時の彼氏に柔らかく否定されてしまったすぐあとのことで、無邪気にトゲナシトゲアリトゲトゲなんて珍妙な、存在すらしないものを挙げることが出来なかった。猫なんてありふれた解答をして、これまたありふれた周りの就活生の意見の中に埋もれて、そうして僕はそのままその会社の中で埋もれていっている。
言葉っていうものはどうしようもないものだ、なんて酔いの回った頭で考える。言葉は終わっていくものを象って、そうして出来るものは動かない過去の冷たい彫像だけだ。言葉によって定式化されたものは、それに縛られて生きていくしかない。世界と繋がる、ということは世界に繋がれてしまうということだ。わたしは何者にもなりたくなくて、でも何かにはなりかった。
だからこの世に存在しない、当然の如く分類にも存在しない、そんな何者でもない生物になりたかった。
まだ僕が学生だったとき、それがどんな折だったかは思い出せないけど、当時の彼氏がトゲアリトゲナシトゲトゲって生物を教えてくれた。トゲトゲという全身に刺のある生物がいて、刺のない亜種が見つかって、更に特定の部位にだけ棘を生やした亜種の亜種が見つかった。だからトゲアリトゲナシトゲトゲという名前になったのだ、と。
分類って面白いよね、なんて言葉をうわのそらで聞きながら、僕はトゲナシトゲアリトゲトゲなんだなという言葉を零していた。わたしの心は棘だらけで、そうであるなら自分の躰も棘だらけでなければならないはずなのに、他の人と触れ合うために刺のない躰を取り繕っている。そんな生き物が、多分猫なんかよりもよっぽどそれらしいわたしなのです。そんな生物は居ないよ、なんて言われてしまったけど。居ないからこそ、それはきっと自分を表すに足るのだと、そう思っていた。
今思うと結局のところ僕は言葉に縛られてしまったままで、言葉から逃れようと思っても一時の交わりにしかそれを見出すことが出来ない、そんな生き物でしかないけれど。
スマートフォンのバイブレーションが鳴る。画面を見ないまま、わたしは泥に包まれるように眠りに落ちていった。