モードの歴史 vol.1 コルセットの追放〜クチュールの革命〜
こんにちは、lilcatです。
極寒のように寒い日もあれば春の兆しを感じられるような暖かい気温の日もあるようになった2月半ば、皆さんはどうお過ごしでしょうか。
今回から貴族たちが着ていたような華やかな一方で堅苦しい洋服から現在のような洋服に至るまでの、モードの歴史について記述していこうと思います。
洋服が好きな人でもそうじゃない人にも「こんなことがあったんだ」と感心や新たな発見をしていただけるような楽しめる記事にいたしますのでどうぞご覧ください。
1910年代 ポール・ポワレの登場
まず初めに、近代ファッションが形成される原点であり、今回のテーマで欠かせない人物はこのデザイナー「ポール・ポワレ」だろう。
ブランドの始まりは1903年、デザイナー「ポール・ポワレ」は1879年フランス・パリで生まれる。
傘屋に勤め、「ジャック・ドゥーセ」のメゾンで経験後、オートクチュールの創始者「ジャン=フィリップ・ウォルト」のメゾンで修行を積む。後に自身のブランド「Paul Poiret」を設立しました。
そして、彼がファッション史に置いて偉大である理由は「コルセットの追放」です。
1906年に発表した「ローラ・モンテス」というドレスにてこれまで女性を締め付けてきたコルセットを取り除きました。
その後も、1911年には動きやすさを追求した「キュロット・スカート」を開発しました。
さらに彼はビジネスにも長けていたこともあり、通常よりも安い値段で自身のブランドの洋服を取り扱うことで、より多くの人に購入してもらえるシステムを作りました。
ファッションの普及と近代化だけでなく、沢山の女性を洋服という規制から自由への解放を成し遂げたのです。
また、彼の洋服は現在、メトロポリタン美術館などで展示されるほど貴重なもので、まさに、文化的美術品と言えるでしょう。
ポール・ポワレ 1910年 コート
また、ポワレの他に同時期の偉大なデザイナーをフォーカスするとなるとやはり「マドレーヌ・ヴィオネ」「エルザ・スキャバレリ」「ジャンヌ・ランバン」「マリアノ・フォルチュニ」は外せません。
デザイナー「マドレーヌ・ヴィオネ」もポワレと同じく、フランス・パリのデザイナーでジャック・ドゥーセの元で経験を積んでいます。
ヴィオネもポワレと同時期にコルセットを外すことを提案していましたが、当時ドゥーセのメゾンでデザイナーをしていてドゥーセの顧客の嗜好に合わなかったためあまり売れず、ポワレに先を越されることになります。
ヴィオネは12歳という若さでクチュールのメゾンで奉公を始め、18歳でイギリスに渡り、ケイ・レイリーで経験を積んだあと、1912年に自身のブランド「ヴィオネ(Vionnet)」を設立します。
第一次世界大戦でメゾンを一時的に閉店するが、大戦後に再開。
再開後は、ギリシャスタイルを取り入れたサテンやギャバジンを使った洋服を制作。
バイアスカットの女王と呼ばれていて、20年代から確立されていくバイアスカット(洋裁での生地の使い方のひとつ。生地の縦と横の地の目に対して斜め方向を利用したカッティングのこと。)の先駆者で、この計算されつくしたカッティングにより洋服が体にしなやかに巻きつき身体の形が強調され、ドレスに美しく自然なドレープを生み出すことを得意としていました。
また、デザインだけでなく、スタッフに給休暇や、産休などの制度を設けたほかに、本格的な社員食堂を用意するなど自身のアトリエで働くすべてのスタッフに福利厚生の充実に務めたのです。
この頃のデザイナーはポワレやヴィオネしかり、「洋服を着ておしゃれをする」はもちろんのこと、プラスアルファで私生活を豊かにさせようとするような文化革命を起こそうとしていることが特徴的です。
Vionnet 1910年代
ポワレとヴィオネの影響でモードはさらに発展し、自由になっていきます。
「ランバン」はリボンやスパンコール、「マリアノ・フォルチュニ」は日本から輸入した最高級の絹を染料で染め、上質な着心地を、イタリア・ローマ生まれで「ポール・ポワレ」の元で働いていた友人のために制作したドレスをポワレ本人に目撃され、ポワレ本人から才能を見出されたデザイナー「エルザ・スキャパレリ」はスポーツウェアに幾何学模様の生地を使うような洋服に芸術的感性を落とし込み勝負するなど、1910年から20年間でどんどんファッション文化は近代化していきます。
LANVIN 10's イヴニングドレス
マリアノ・フォルチュニ オペラジャケット
1920年 モダンファッションCHANELの誕生とジャズカルチャー
ポール・ポワレが女性をコルセットから解放したその頃、ガブリエル・シャネルがフランスでブランド「CHANEL」が設立します。
ココ・シャネル(ガブリエル・シャネル)は1883年オーヴェルニュで生まれる。
家庭環境に恵まれておらず、幼少期から父親は旅回りを行う商人で家を空ける毎日。
その後、母親を病気で亡くし、孤児院に入り育つ。
孤児院にて寄宿学校に通い、そこで裁縫のスキルを身につけて昼はランジェリーショップで、夜はキャバレーで歌を歌い踊るなどして働いていました。
このキャバレーで「ココ」の愛称で呼ばれるようになった。
キャバレーで働いていたある日、投資家「エディエンヌ・バルサン」と出会い、愛人として別宅に招き入れられた。
その後、イギリスの実業家である「アーサー・カペル」と関係を持ち、アーサーとバルサンの協力のもと、1909年に自身の帽子ブランドを設立。
1910年にカンボン通り21番地に帽子店「シャネル モード」をオープンし、アーサーの出資もあり大成功を果たす。事業はどんどん拡大、帽子だけでなく、洋服なども取り扱うようになった。
「ココ」の愛称でおなじみのシャネル、ポワレと同じように、ジャージ素材のスカートや、動きやすく、なおかつ洒落ている洋服の制作に力を注ぎ、コルセットからの解放を提案していきます。
ポワレと比較してシャネルの成し遂げた功績はコルセット脱却だけではなく、素材から機能性などを考えてデザインされた洋服や、女性へのパンツスタイルの提案でしょう。
これまでの女性=スカートという固定概念や文化をディストラクションさせたまさにモードの革命だといえます。
シャネルの魅力はそれだけでなく、モノトーンを中心としたシンプルかつエレガントな洋服もまた人々の心を魅了した一つの理由でもあります。(シャネルのデザインにモノトーンが多い理由は孤児院や修道院でのインスピレーションであるとされている)
また、本来男性用であるツイード生地をレディースファッションに落とし込んだことも有名です。
ココ・シャネル
シャネルは何度も映画の題材にもなっていて、2009年に公開されたココ・アヴァン・シャネルは私も何度も観ました。
こちらの映画は歴史にとても忠実に作られておりラストシーンのモデルが華やかなドレスを身に纏い階段から降りていくオートクチュールコレクションはとても有名ですよね。
1920年、10年にフランス音楽とブルースのハイブリッドで生まれたジャズが繁栄し、この頃からジャズクラブが流行します。
ジャズクラブでは毎晩、男女が華やかなドレスやスーツを身につけ、踊るようになります。
このことで、ジャズバンドの服装などにも注目を集め、スーツスタイルが流行したとも言えます。
最後に
今回は1910年〜20年の歴史を記事にしました。
好評であれば次回は続きの1930〜1950年までの歴史について語りたいと思います
今回も長文読んでいただきましてありがとうございました‼️
insta @lil__cat__
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