間柄の数だけ私のキャラがある
まだ研究室にいた時代に考えました。
私ってこんなキャラだった?本来もっと主張するタイプだよね?と。
ラボメンバーの優秀さに圧倒されて、優秀じゃない自分が嫌われないように努めた結果が謙虚な振る舞いでした。
職場にいるときに考えます。
私って、子供っぽいなあ。
他の同年代の社員と同じくらいには、もっと落ち着いていたい。
一人の時は落ち着いているのに、職場では子供っぽいキャラになることで気難しい部分を中和したり、抜けている部分を許されようとしていたりするのかもしれません。
女の子らしい友達といるときに、私は自然と声が低くなります。
甘えん坊な友達といるときには、保護者みたいな目線になります。
間柄の数だけキャラが存在しているのかもしれない。
脳はひとつ。だから元の考え方は一つなのだけど、その場に合わせたキャラを通して表出されるため、振る舞いに一貫性がなくなるのだと思う。
研究室や職場でのキャラは、しばしば嫌になります。
そのキャラを着ている時間が一番長いから余計につらく感じます。
だけど、それは私が無意識のうちに編み出した処世術で、言い換えれば社会性の1つとも言えるはず。
自分なりに社会に適応しようと頑張っているのかもしれません。
(少し労いたくなった。)
キャラとは少し違いますが、人が間柄の数だけ違う一面を見せていると思ったエピソードがあります。
中学生の時、一緒に風紀委員をしていた子がいました。Kくんと呼びます。
私たちには始業チャイムが鳴った瞬間に着席していなかった生徒を記録する仕事があり、その日はKくんの担当でした。
記録されると罰ゲーム(反省文や掃除など)が課されるので、私自身かなり気を付けていたつもりです。
しかし、Kくんの記録には私の名前が含まれていました。
納得がいかなくて、友達の前で愚痴をこぼしました。
「Kくんの記録は間違っている、ひどい」みたいな感じに。
それを聞いて友達が言いました。
「Kはそんなやつじゃない。よもぎが立っていたんだろ。」
確かに友達はKくんと仲が良かったのです。
だけど自分を信じてもらえなかったのがショックで、落ち込みました。
この経験から考えました。
私にとってKくんは普通のクラスメイト。
しかし、友達にとってKくんは大事な友人。
私とKくんの間でなされる会話と、友達とKくんの間でなされる会話は全く違うものなのだろうと。
私がもし友達の立場だったとしても、よもぎよりKくんのことを信じたくなるくらい、Kくんは「いいヤツ」なのだろうと。
それからは、気の合う友達が「素敵な人」と思っている人が私にとってそうでなかったとしても、そういうこともあるよな~と思うようになりました。逆もしかり。
自分が見ることができるのは他の人のごく一部、私はそう思うのです。
職場での自分が嫌になってしまうこともある。
それならどこでもいいから別の場所に、私の好きな私を持っておけばいい。
裏表がある、などという言い方をすると、それが良くないことみたいに聞こえるけれど。
間柄の数だけキャラがあることは、自然なことだと思います。