24年間の闘病生活の希望
平成12年の7月に「精神分裂病」と診断されて闘病生活というのが始まったのだけれども「精神科医が患者の話をまともに聞いたりするものか?」という疑問を持っていたし精神科病院で治療に用いられている薬や手法というのに不安を抱いていたし下手をすれば廃人と化してしまうような危険な薬やロボトミー手術なんかを受ける事になってしまうというような危惧というのも持っていたし一度精神科病院に入院してしまったら死ぬ迄退院できなかったり世間から異常者として隔離されるということになり間違いなくおかしな事になりそうであるという予感というのも感じていたし精神科病院に入院した事により仕事も失い交際相手との関係というのも考えなければならなかったりしなければならず苦悩する事にもなったのであるのだが、当時の交際相手というのも長野県に暮らしていたので結婚というのを考えられるかというのも疑問であったし精神分裂病と診断された状況で闘病生活を送るような状態になったとしたら負担を掛ける事になってしまうしお互いの将来的な事を考えるのであれば身を引くというのが自然な状況であったと考えましたし精神科病院から退院後に一度だけ長野県に会いに行ってみたのでしたけれどもその時に「デパス」という精神安定剤を持っていかなかった為に薬が切れて禁断症状のようなものが出てしまったので、交際を続けるのも難しいという決定的な打撃を受ける事になってしまいましたし精神安定剤との闘いと共に精神科医師との闘いというのもしなければならなくなるという事態になり基本的に味方になりえるという人間というのも皆無でしたし母親と兄と姉というのも非協力的であったし一番の問題というのは、「姉の旦那」という状態であったので姉の旦那が死ぬのを待つか、それ以外の何かしらの良い知らせが来るというのをまたなければならない事になっていましたけれど人間というのは、簡単でなく朗報というのもなかなか伝わって来ないという状態が、長い時間続けましたけれども「姉の旦那が倒れる」という事態になりましたのでしたけれど脳腫瘍の摘出手術を緊急であったものの一命を取り留めるという事となり千載一遇のチャンスに恵まれたり活かすという事を出来ないままにその後に10年程の年月を経てしまうことになりましたけれど僕の闘病生活というのは、一進一退で精神科医師を納得させるという交渉術であったり薬の必要性を問うという作業を行うという草の根作戦を延々と続けるといういつ果てるとも分からない不毛な闘いを強いられる事になり続けました。
精神科医師の職務や経験や知識レベルについてであったり「患者をきちんと見ているのか?」という所に焦点をあてたり常識や見識という部分からのアプローチというのについても「先生」と呼ばれている事により様々な先入観や意識というのも違ってしまうのであろうから取り扱いというのも慎重を帰さなければならなかったり一筋縄で行かないという考えというのもありましたけれども用意されている人間というのが、好むと好まざるとに拘らず用意されてしまっているので大変な死闘を繰り広げることになっていましたけれど現存している状態なので「負けていない」と言えますけれども最終的な段階というのは、「永眠」であろうからなるようになれとい匙を投げることしかできませんし僕の手に余る作業ばかり増えているのでどうにもなりませんといった感じですけれど光明というのも無いわけでありませんから乞うご期待と言えると想います。
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