【映画】フリーソロ

映画、「フリーソロ」を見た。命綱なしで断崖絶壁を登る男に迫ったドキュメンタリーである。途中で崖から落ちる男性の映像があったり、落下して死んだ者たちの紹介があったり、この挑戦がいかに死と隣り合わせであるかを知らされた。また、死と隣り合わせの男の恋人の複雑な思いについてもインタビューすることで、一見勇敢で素晴らしい挑戦のネガティブな側面を描くことに成功している。

この主人公を変わった人と片付けることは簡単であるが、この主人公は私達の延長線上にあると捉えたい。たとえばジェットコースターに乗る人はたくさんいるが、それはスリリングである一方で若干のリスクを伴うものである。最悪の場合、死に至るかもしれない。ジェットコースターに乗る人はそれをスリリングなものとして捉えている一方、それに伴うリスクを小さく捉えているのだろう。

この映画の主人公も同じで、フリーソロをスリリングなものと捉えている一方、それに伴うリスクを小さく捉えていると考えられる。加えてフリーソロは自分のトレーニングによってリスクを最小化できるという点で、ジェットコースターとは異なる。なぜなら、ジェットコースターは乗客がいくら努力したところで、遊園地側の安全管理が不十分であれば事故が生じうるためである。その意味で、ジェットコースターは遊園地に対する信頼という脆い土台の上に成り立っており、自分でリスクを最小化できるフリーソロの方がある意味では安全と捉えることができる(自分はそうは思わないが…)。

上の議論に対して、「命を懸けてスリルを味わわなくても…」という反論は当然あるだろう。しかし、同じ批判はジェットコースターに対してもすることができる。「滑り台でも充分満足なのにどうしてジェットコースターに乗るのか?」と言われたとき、どう答えるのだろうか。「ジェットコースターの方がスリリングだから」と回答するのであれば、同様に「フリーソロの方がスリリングだから」という回答が成立してしまう。

要するに、何をスリルと捉えて何をリスクと捉えるかは人によって程度が異なっており、自分にとっての普通も他者から見れば異常なのである。実際にこの主人公はリスクに対して鈍感であることがfMRIの診断でも明らかになっており、ちょっと程度が極端なだけなのである。

自分と違う人は無数にいるが、そういう人を全く違う人間と片付けずに暮らしたいものである。



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