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【ブックレビユー】『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男・西崎義展の狂気』牧村康正/山田哲久著(講談社+α文庫)

2024年11月読了。
かねてから気に成っていたのだが、長らく積ん読状態だった本。ふと思い立ち読み始めたら…、まぁ〜止まらない。『宇宙戦艦ヤマト』の話と成るとシャキッとしてしまうほど大好きな自分が、こんなに長い間読むのを放置していたことを本当に後悔した。

《有り得ない情熱が“奇跡”を起こす》

 西崎氏の《破滅的な生き方》は色んなメディアで見聞していたし、子供心にも「この出たがりなプロデューサー、胡散臭いなぁ…」と当時から感じていたので、ある程度予想はしていたがここまで“破茶目茶な人生”だったとは…、『呆れて言葉が出ない』と、はこういう人に使うのだろう。
 ただしかしそれだけではなく、『子供が見るもの』であったアニメを、大人の鑑賞にも耐え得るだけの映画作品にしたことの最大の功績者でもあり、現代よりも、“ホラ吹き並みの口”さえ有れば、後は「狂気的な情熱」で何とか出来て成しまうと云う夢を見る余裕が有った時代だった事も、要因として大きかったと思う。
 ただ、とにかく何より彼は、天下の手塚治虫や松本零士達をも手玉に取った程の《規格外の胡散臭い奴》であった、その規格外であるが故の一瞬の閃きが彼の『最も大きな原動力』と言っても良いだろう。
 著者が何度も書いているように、あれだけのスケール感、そして骨太且つ重厚な物語の世界観を持ったアニメーション作品は、やはり『ヤマト』以外には当時存在し得なかったと思うし、物語全体の構想力は、その《胡散臭い奴の発想》にたった一度だけ、神が彼に与え与え給うた“幸運”だったとしか思えない。
 そうしてこれは二作目までは駆け上がるようにのし上がり、『製作総指揮』『ヤマトの名プロデューサー』として絶頂期を迎える。その時期の彼の生活は、バブル期なんて小銭にしか見えないような巨利を得て、正に“王様”の様な生活に耽る。「自分がヤマトを造ったんだ」と云うピラミッドよりも高いプライドと共に…。

《平和観の大きな違い》

 ちょっと此処で話題を変えて、四十数年前の旧作シリーズと、現在も尚続いているリメイク版の『2199』シリーズとの、根本的な相違について触れておきたい。

  最近作られたリメイク版の『2199』シリーズは、人物像も戦艦や武器兵器に至るまで、鳥肌が立つほど美しく描かれており、その点では大変素晴らしいのだが、新シリーズの物語の中心思想が『お花畑』と云うか「平和を願う人々が居れば、例え住む星が違う人同士でも、必ず平和を分かちあえる」と云う、恐ろしいまでの性善説な古い民話の様な物語なのだ。
《真の平和とは何なのか、何故世界(宇宙)はいつまで経っても争いを止められないのか》と云う根源的な主題をもっと逆説的に語り、紡ぎ出す様な強いメッセージ性,想像力,脚本力が圧倒的に貧困であり、だから「日本のアニメ村はどんどん縮こまっていく」のか…と溜め息も出た。

「あの頃と今とじゃ時代が違う」と言うのは簡単でズルい言い訳だが、昔の(二作目の)『さらば…』に流れている《日本人なら絶対に響く、心の琴線の如き精神的な核》の様なものを描き出せる彼の制作者としての度量,信念,歴史観との違いは、絶望的な程の乖離がある。
 そうして「物語を描ける」人がドンドン少なくなっていくから、国際的に高く評価されるほどの画力は飛躍的に延びていても、誰の心に響く筈も無い「波動砲を封印する」なんていう馬鹿な物語を作ってしまうのだろう。

 (旧)二作目は「日本の特攻礼賛なのでは」など当時も波紋を呼んだが、人が掛け替えの無い愛する人を守る為なら、『自分の命に代えても』守るのが本当の愛なのだ、と云う主張は、決して好戦的でも死を美化するものでも無い。「戦争」「特攻」「殉死」等の展開が出て来ると、反射的に牙を剥く〈左傾メディア〉にとってはいい歳をした大人でも許せないものがあったのだろう。そして又テレビ放送時から、キチンと筋の通ったテーマ性のある重厚な音楽も大きな魅力だった。

『“平和と云うもの”は、国家間のにこやかな会談や開かれた会議などで保たれているのでは決して無く、その為には平気で嘘や裏切りも騙しも横行し、世界中の人間が駆け引きを繰り返し手垢がベタベタついている様な状態で、どうにかこうにか何とか大きな戦争にならないでいる、そんな些細なことでいつ壊れるかも分からぬ状態のことである』と語ったのは、司馬遼太郎氏だ(直接文献が出て来ないので“大意”だが)。
『平和が一番』と語っていれば、平和な世の中に成ると云うGHQによる誤った“戦後教育(WGIP)”が、日本人から正しい「歴史観」「安全保障観」「愛国心」を奪ってしまった。この約80年と云う長期間の《教育という名の洗脳》により、日本人は、公(国家,共同体)よりも私(個人,個人的な物の考え)の方が優先されるべき事項として、国民全体に刷り込まれてしまった。日本が長らく世界的に治安の良い国と言われたのは、戦前の倫理教育が残っていたからだと思う。故に80年も経てば、治安,風紀は乱れ、《知らない人から頼まれて人殺し》のバイト依頼がやり取りされる時代と成ったのだ。
 これほどの違いが有れば、作品の中心となる骨は全く異なり、《みんな幸せで楽しいね》と云う作品が出来上がってしまうのは、ある種当然だろう。

《栄光から破滅へ…》

 さて、話が逸れてしまったので、本書に戻ろう。
 彼はその後、自ら『ヤマト』からの脱却を図り、幾つかの作品を作ったが、全て見事な程にコケた。そして、それまで「成功者」として傍若無人に振る舞い、驕り高ぶった人生だったが故に、転落後はみるみる周囲から人は去り、莫大な借金に追われ、自分自身「脱却した」筈のヤマトの続編に手を染めていく…。
 二作目で死んだ筈のキャラを蘇らせ、都合の良い部分だけを残して、シレッと続編を作ってしまう。この辺りはオンタイムで記憶があるが、子供心にも「ずいぶん都合の良い話だなぁ…」と、二作目までの興奮がみるみる冷めていったのを憶えている。
 そして、その中でも“まだ何とか観られる程度”だった『ヤマトよ永遠に』の次作以降は惨憺たる内容で、急速な右肩下がりで興収も減り、新たな企画も全て失敗し続け、その内いつの間にか『ヤマト』に取り憑かれた様に固執し、事業者としては世間から見放されてもヤマトを作り続けようとし、違法薬物にまで堕ちていく…。その後病を併発し、最期まで『ヤマトの続編を作る』にしがみつき続けて亡くなった。
 二作目のヒットが“幸運”過ぎた為、己の才能を恃む山の如き高いプライドは終生変わらなかった事は、まことに人生の皮肉を痛いほど感じた。

 文中にも有ったが、彼も含めて勝新や三船、角川春樹…といった様な凡そ“規格外な”創造者がわが国からこの世を去り、《おとなしいよく出来る子がそのまま大人になった様な今の日本》により国力は落ち込み、縮小していくばかりの未来の日本には現れないのかと思うと、一層寒々しい気分にさせられた。

 そして、かつて繁栄の時代に自らが所有する大型クルーザーを操縦してカンヌへ直接乗り付け、作品も何も出品していないのに毎日のように大勢の客を招いては、ドンペリを何百本も開けw、ただ只管自らを誇示し、そして去っていった《幻の王侯貴族の如き伝説》は、現地では今でも語り草と成っていると云う…。

さぁて昔の『さらば…』でも見よっと!

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