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『月影の旅人〜服部半蔵から松尾芭蕉へ〜』 第一話:「月影の旅路、はじまりの刻」
天正十年(1582年)――日本の歴史が大きく動いた。織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた事件は、全国に大きな衝撃を与えた。その混乱の中、徳川家康は堺に滞在していたが、敵に囲まれ帰る道を失っていた。
だが、この危機を救ったのが、伊賀の忍者を率いる服部半蔵だった。彼の知恵と忍術のおかげで、家康は無事に三河へ戻ることができた。これが後に有名な「伊賀越え」と呼ばれる出来事である。
しかし、その後の歴史書には、服部半蔵の名が突如として消える。関ヶ原の戦いの4年前の慶長元年(1596年)、半蔵は55歳で病死したと伝えられているのだ。だが、それは表向きの話にすぎなかった。実際には、半蔵は家康の命を受け、密かに生き延びていたのである。
――大阪夏の陣後の元和元年(1615年)。
徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いてから約10年経ったある日のこと。江戸城の静寂な一室にて、家康は服部半蔵を呼び出した。60歳を越えた半蔵の姿は、年齢を感じさせるものでありながら、その眼光はいまだ鋭く、若かりし日の風格を漂わせていた。
家康:「半蔵よ、お前の忍びの技、忠誠心、そして知略には何度も助けられた。だが、この平和を保つために、もう一つだけ頼みたいことがある。」
半蔵は静かに頭を下げ、家康の言葉を待った。
半蔵:「この命、最後まで殿のために尽くす所存です。」
家康は満足げにうなずくと、脇に控えていた南光坊天海を手で招いた。
家康:「お前には新たな名を与える。その名は『松尾芭蕉』。これからはこの名を使い、各地を巡ってほしい。」
天海は静かに一礼しながら、家康の言葉を補った。
天海:「松尾芭蕉。この名には『風雅(ふうが)を纏(まと)う旅人』という意味を込めました。これからの任務にふさわしいでしょう。」
家康の顔が険しくなる。
家康:「世は平和に見えるが、影で不穏な動きを見せる者もいる。お前には、そうした連中の存在を密かに探り、私に知らせてほしい。ただし、剣や術を用いるのではなく、俳句に情報を織り込み、報告するのだ。」
半蔵は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに平静を取り戻し、深くうなずいた。
半蔵:「俳句という形で……確かに誰にも疑われませんな。」
家康は続けた。
家康:「この任務は誰にも知られてはならぬ。お前は死んだことになっている。松尾芭蕉としての生を全うするつもりで臨め。」
天海は無言で家康の隣に立ち、半蔵をじっと見つめていた。表情こそ穏やかだったが、その視線はどこか冷たいものを帯びている。半蔵は、その意味を察しながらも、言葉にはしなかった。
半蔵:「心得ました。」
こうして、服部半蔵は「松尾芭蕉」という名を授かり、再び世の中へと旅立つことになった。だが、この旅が容易ではないことを彼はわかっていたが、半蔵の心には迷いはなかった。
自らの屋敷に戻った半蔵が旅の準備を進める中、懐かしい面影の人物が彼の前に現れる。その名は凛(りん)、半蔵が幼い頃から忍びとして育て上げた者だった。彼女は戦乱で家族を失い、孤児となっていたところを半蔵に拾われた。そんな彼女も20代になり、冷静さと実力を兼ね備えた優秀なくノ一へと成長していた。
半蔵:「久しいな、凛。」
凛:「はい、半蔵様。お久しぶりです。」
半蔵:「伊賀を離れ、どこで何をしていた?」
凛:「半蔵様が江戸へ参られた後、私は各地を渡り歩きながら情報収集の任務に従事しておりました。しかし……」
半蔵:「しかし、何だ?」
凛:「最近は平和が続き、忍びの必要性も薄れつつあります。この先、自分がどのように生きるべきか、考えておりました。」
半蔵はしばし黙考した後、静かに口を開いた。
半蔵:「ならば、私と共に来るか?」
凛:「……半蔵様と?」
半蔵:「私はこれから松尾芭蕉として旅に出る。だが、この旅はただの風流なものではない。お前の力が必要だ。」
凛は目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
凛:「喜んでお供いたします。半蔵様。」
こうして、凛が半蔵の旅に同行することとなった。
翌日、半蔵と凛が江戸の賑わう街を歩いていると、一角で小競り合いが起きていた。町人たちの視線の先には、侍2人にカラまれた若者の姿があった。
侍A:「おい、浪人風情が生意気に道をふさぎやがって!」
浪人は、飄々(ひょうひょう)とした口調で応じる。
浪人:「いやいや、そっちからぶつかってきたんでしょ?」
その軽い態度に、侍たちの表情が険しくなる。若い侍が一歩前に出てきて、浪人の胸元を指差した。
侍B:「調子に乗るなよ、余所者め。ここがどこだかわかってるのか?」
浪人はその指を一瞥(いちべつ)し、穏やかに答えた。
浪人:「もちろん、江戸の城下町だろ?まさか、あんたらが町全体の主だなんて言うんじゃないよな。」
町人たちの中からどっと笑いが漏れるが、侍Aがそれを遮るように声を上げた。
侍A:「減らず口を叩くな。ここでは俺たちの決まりに従うか、それとも――」
侍Aが言葉を切ると、侍Bが刀に手をかけ、浪人を睨みつけた。しかし浪人は一歩も引かず、その視線をじっと受け止める。
浪人:「刀を抜くのは勝手だが、手入れはしっかりしてるか?錆びてたら恥をかくぜ。」
挑発とも取れるその言葉に侍Bの顔が赤く染まった。
侍B:「てめえ……!」
刀を抜こうとする侍の腕が動くよりも速く、浪人が一瞬のうちに侍Bの刀を鞘(さや)ごと奪い、浪人の手に収まっていた。
浪人:「おっと、危ない。こんな狭いところで刀を振り回すもんじゃない。」
侍Bが呆然と立ち尽す中、浪人はその刀を軽々と回しながら言葉を続ける。
浪人:「刀は人を守るための道具だ。振り回してどうする?」
浪人の言葉に侍Bが動揺する中、侍Aが低い声で命じた。
侍A:「やめろ。こいつはただの余所者じゃない。」
侍Aの判断により、侍たちは静かにその場を去ろうとする。
浪人:「忘れモンだよ。」
浪人は奪った刀を返し、侍たちの背中を見送ると、軽く息をついた。
半蔵:「ほう……面白い男だ。」
半蔵はその光景を目にして立ち止まると、凛に声をかけた。
半蔵:「凛、あの男を試してみろ。」
凛:「承知しました。」
凛は人混みをすり抜け、軽やかな足取りで浪人に接近した。
凛:「浪人風情にしては、随分と自信がありそうですね。」
浪人は凛の声に振り向き、軽く目を細めた。
浪人:「おや、こんな可愛らしいお嬢ちゃんが、俺に何の用だ?」
凛:「あなたの腕前がどれほどか、試してみたいのです。」
そう言い放つやいなや、凛は風のように駆け出した。その動きは俊敏で、見る者を圧倒するものだった。浪人は驚く暇もなく、迫り来る凛の拳を受け流す。
浪人:「なかなかやるじゃないか。」
浪人は一歩下がりながら木刀を抜こうとするが、凛の素早い動きに阻まれ、すぐさま背後に回り込まれる。
凛:「どうしました?本気を出さないのですか?」
浪人:「お嬢ちゃん、本気を出したら後悔するぞ。」
ふたりの攻防はしばらく続いたが、浪人は木刀を落とし、凛に降参の意を示した。
浪人:「参った。こんなに強いとは思わなかった。」
木刀を落とした浪人は、軽く息を整えながら静かに笑った。
浪人:「いやはや、見事なもんだな。こんなに追い込まれるとは思わなかったぜ。」
凛:「腕は悪くないけど、少し慢心が過ぎるようですね。」
浪人:「図星だな……それで?こんな俺に何の用だ?」
その時、半蔵がゆっくりと歩み寄り、鋭い眼差しで浪人を見据えた。
半蔵:「その腕前、惜しいな。私の名は服部半蔵と申す。お主の名は?」
浪人:「俺は玄之助と申すが……って服部半蔵?」
“服部半蔵”の名前に驚く玄之助。
半蔵は玄之助の話を遮って。
半蔵:「玄之助よ、お前には確かに剣の才がある。だが、剣だけにこだわっていては戦いには勝てん。お前には“間合い”の感覚と相手の先を読む冷静さが欠けている。」
玄之助は苦笑いを浮かべた。
玄之助:「やっぱりそうか。実は俺自身も、そこが俺の弱点だと感じていた。」
凛:「それに気づいているのに、なぜ浪人生活を続けているのですか?」
玄之助:「師匠を持たずに好き勝手やってきたからな。一人で剣を振るうだけじゃ、どうしても限界がある。」
半蔵は深く頷き、静かに言葉を続けた。
半蔵:「私たちはこれから旅に出る。そこで経験するものは、お前が求める“足りない何か”を埋めるものになるだろう。どうだ、一緒に来ないか?」
玄之助は一瞬、黙り込んだ後、意を決したように口を開いた。
玄之助:「なるほどな。そういうことなら、服部半蔵様について行くのも悪くない。俺の足りない部分を埋められるなら、この剣も役立つだろう。」
凛:「なら、決まりですね。玄之助さん、私たちの旅の一員です。」
玄之助:「よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん。」
凛は頬を膨らませて抗議するように言った。
凛:「お嬢ちゃんではなく、凛です!」
玄之助:「分かった、凛ちゃん。これからヨロシク頼む。」
半蔵は二人を見て、満足そうに微笑んだ。
こうして、新たな仲間が加わり、半蔵、凛、玄之助の旅が始まった。
江戸を出発した三人は、東北への街道を進みながら夜を迎えた。草木の香る野営地で、半蔵が焚火を囲む二人に向き直り、静かに語り始めた。
半蔵:「今回の旅の目的を話しておこう。これから我らは、徳川幕府に対して反旗を翻す者たちの動きを探る。」
凛:「つまり、密偵として動くということですね。」
半蔵:「その通りだ。ただし、表向きは旅人として振る舞う。私は“松尾芭蕉”という名で俳諧(はいかい)の旅をしている詩人を装う。」
玄之助:「松尾芭蕉……渋い名だな。それで俺たちは?」
半蔵:「お前たちは、私の弟子ということにする。凛は歌を詠む才女、玄之助は俳諧の心得を学びたい浪人だ。」
玄之助:「なるほどな。ところで、俺たちの動きを家康公にどう伝えるんだ?」
半蔵は懐から巻物を取り出した。それには、一句の俳句が記されている。
半蔵:「私が詠む俳句に、密かに情報を織り込む。それを届ければ、家康公が状況を判断されるだろう。」
凛:「俳句に情報を?……さすが半蔵様、抜かりがありませんね。」
玄之助:「しかし、旅は一筋縄じゃいかないだろう。敵だって、俺たちを野放しにするわけがない。」
半蔵は火の中に木の枝を投げ入れ、炎が揺らめくのを見つめた。
半蔵:「その通りだ。お前たちには命を賭ける覚悟が必要だ。それでもついてくるか?」
凛と玄之助は互いに目を見合わせ、迷いのない声で応えた。
凛:「半蔵様と共にある限り、どんな困難も乗り越えてみせます。」
玄之助:「俺も行くさ。面白そうな旅になりそうだしな。」
その夜、満月が野営地を照らす中、半蔵は静かに俳句を詠んだ。
月影の 旅路に潜む 忍び道
これが松尾芭蕉としての第一歩だった。
第一話 完
※この物語は作者の妄想(創造)の話しである。
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