【短編小説】バタフライ、エフェクト
上がる歓声、選手を呼ぶアナウンス、冷たい水面………本来ならば、俺も3年前にあの場所に立っている筈だった。
俺は物心ついた時から水泳が大好きで、習い事は水泳しかやっていなかった。一番得意なのはクロール。あと、平泳ぎも……まあまあ得意だった。アイツに抜かされるまでは。
俺の通っていたスイミングスクールに、水樹は小学3年の時にやってきた。同じ学校に通っていたけど、別のクラスだったし、あまり話したことがない。
スクールでは帽子の色で上達度クラスを分けていた。赤、黄、白、桃、緑、紫、黒。黒が一番上手いクラスだ。その時俺は緑のクラスだったのだが、あろうことが、水樹は白から緑に飛び級してきたのだ。
最初から白ってだけで凄いのに、飛び級までするとは…しかし、彼の凄さを知ったのはその後だ。水樹は俺を平泳ぎで抜いた。次のクラスの進級までに何回もタイム計測がある。その中で、水樹は俺を難なく抜いてみせたのだった。
あの頃の俺は悔しくて悔しくて悔しくて…緑クラスの中で最も平泳ぎが速かったのに、簡単に抜かれた悔しさの勢いで、「ライバル宣言」をしてしまった。ただの負け惜しみだか、そんな俺を知ってか知らずか、水樹はその端正な顔をにっこりと綻ばせ「受けて立つ!」と答えたのだった。
夏休み、高学年になると市の水泳記録会がある。選ばれた数名のみが泳げる花形。それは泳ぐ者全員の憧れで、無論俺も目指していた。
段々水樹と話す回数も増え、ライバルとして泳ぐ日も増え、同じ黒い帽子を被るようにもなり、念願の小6……の頃には、流行り病のせいで記録会は無くなった。
仕方ない。その病のせいで学校閉鎖、プールの授業もなく、しまいにはスイミングスクールも閉鎖していたから、大体の予想はついていたが…
改めて事実を受け止めると、悔しくて悔しくて仕方なかった。水樹はとにかくなんでも速かったのだが、飛び抜けて凄かったのはバタフライだ。段々筋肉も付き、ガタイが良くなった水樹を抜けるものはいなかった。さぞ記録会ではいい記録が出るだろうと俺も楽しみにしていた矢先の事だったからだ。
中学では、水泳部には入らなかった。水樹と違う中学なのと、あるようでない小さな部であること、また、この流行り病が終わるのは5年後だろうと誰もが言っていたからだ。
まあ、そんなのはまっぴらの嘘で、3年後にはその病が収束し、記録会が復活して……
今は弟の記録会にやってきている。
──本当は俺も泳ぐはずだったあの場所。
中3になってもまだ引き摺っているのか、という話だが、母が無理やり俺を連れてきたのだ…。
屋内水泳場は蒸し暑く風も吹かない。席には座れないし…誰が来るかよこんなとこ、とため息をついたその時………後ろから声をかけられた。
「あれ……もしかして清水?」
びくりと肩が跳ねた。聞き覚えのある声、清水…って俺?俺のこと指してるのか?
「しーみーずー!」
肩に手をのせられて、俺は仕方なく振り返った。
俺よりも高い背、整えられた顔面、下がった目と眉、筋肉質な身体…
「みず…き…?」
「やっぱ清水だ!お前じゃないかと思ってたけど…ビンゴだったわ」
そう笑うこの美形は、俺の…ライバル。葉山水樹だ。
「俺、妹が強化選手で見に来たんだけど…清水もそんな感じ?」
「うん…俺も弟が選手でさ」
「妹から聞いてる。背泳ぎが得意なんだって?」
そうだった。水樹の妹は俺の弟と同じ小学校なのだった。
「お前ほどじゃないけどな」
「買いかぶりすぎだって」
水樹はその綺麗な眉を下げて笑った。
「ところで……
なー清水…中学で水泳辞めたってマジ?」
「………おう」
少し重い雰囲気が流れた。
『3、男子バタフライの選手紹介です』
アナウンスが響く。
視線がプールに向いた。それは水樹も同じだったようで、会話が止まる。
『Take your marks』
壁を蹴って伸び……ドルフィンキック、からの手を振り上げて水に入れると同時にドルフィンキック。
一番に目が行ったのは……3コース目のガタイの良い男子だった。手を大きく振り上げ、腰を上手く使い、ドルフィンキックがしなやかで力強い。彼の美しいバタフライに見惚れていると、他の子達よりも5…いや、10秒程速くゴールしていた。本当に…それだけ速かった。
「す、すげ…」
「あれは…記録更新だろうな」
「ほんと………なんか…、お前のバタフライ見てた気分」
彼の泳ぎは、水樹を思わせるようだった。
まるで鯉のような…蝶のような…「イルカ」そんな言葉がしっくりきた。
それは初めて水樹の泳ぎを見た、あの感動が蘇ってくるようだったからだ。
「まるで、イルカだ」
そう呟くと、水樹はぷっ、と笑って、そのまま腹を抱えて笑い出した。
「な、何笑うんだよ」
「いやー……俺が初めてバタフライ泳いだ時も、お前そう言ってただろ?」
「あ、あー………そうだっけ?」
「そーそー、お前が褒めまくるせいで俺天狗になるとこだったわ」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「なー、清水はもう高校決めたのか?」
「えっ?あー…うーん…東か南にしようかなって」
「成桜に行かないか?一緒に」
え?思わず顔をあげる
「成桜って…私立で頭がいいあそこ…?」
「水泳部が強いんだ。よかったらどうかなって」
「いやいや。俺そんな頭よくないし中学やってなかったから水泳はもう無理だよ」
「そんなこと言うなって。お前めちゃくちゃ速かったじゃん」
「それは昔だって。無理無理」
そう言う俺に無理矢理LINEとインスタを交換させると「絶対成桜で待ってるから」と水樹は力強く言った。
「新入生の諸君、入学おめでとう。」
礼拝堂に大きく校長の声が響く。左右に大きく散りばめられたステンドグラス、正面にはプロテスタントを示す質素な十字架、後ろからはパイプオルガンの音色が響いている。
学校見学の手続きをミスって俺は一度も学校内を見ずに受験した…つまり、ここに来るのは初めてだ。
この高校を志望校調査紙に書いたとき、周りは困惑していた。担任には「お前には無理だ」とも言われた。自分でもそうだと思った。滑り止めは東にした。
友人達は戸惑いながらも応援してくれた。
受験結果を張り出すのは去年で終わってしまった。スマホでサイトに辿り着き、ドキドキで結果を押すと桜のイラスト越しに「成桜学園高等学校 普通科 合格」表示された。正直…喜びより安堵が勝った。ベッドで横になってひとつため息をつくとスクショを水樹に送った。既読がつく前にピンポンが鳴る。もしや?と思って出ると水樹だった。
「ど、どうだった?」
まだ寒い季節だというのに薄着だ。急いで自転車で駆けて来たんだろう。手にはコンビニの袋が握られている。こういうところは律儀である。
「まあ入れよ」
「おめでとう!!!」
コンビニで買ってきてくれたケーキをつつく。水樹はもともとスカウトされていたから合格は決まっているようなものだった。正直…水樹がいなければ合格できなかったと思う。俺の成績が危ういのを知ると水樹は勉強会をやろうと言い出した。そんなのは駄弁るようになるだけで逆効果なんじゃないのか?と言っても聞かないので実際やってみたらめちゃくちゃ集中できた。ほとんど毎日勉強を教えてもらって、模試でもぐんぐんと成績をあげて、でもB判定に一歩届かずだった。この受験は博打みたいなものだと先生達は口を揃えて言っていた。
「ありがとう…水樹」
「頑張ったのは清水だろ」
2人で床に寝そべる。
「ほんとに、これが現実だなんて信じられない」
「また…一緒に水泳が出来るのか…」
「どっちかって言うと競泳だけどな」
会えなかった二年間を埋めるようにそれからは色々なことを話していた。
「オリンピック行きてーーー」
「大学決めた?」
「高校の勉強ついてけるかなー」
「彼女ほしー」
「水泳は楽しいけど競泳は苦しいだけだよな」
くだらないことを駄弁りあっていた。
俺達がここまで来れるとはその時は考えもしなかった。
上がる歓声、選手を呼ぶアナウンス、冷たい水面、取り囲むカメラ達………本来ならば、俺が立っていいのか分からない場所。
“Take your marks”