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東京にはない「柑橘」


田舎を歩く。

柑橘の木を目にする。

写真を撮る。

歩く。また柑橘を目にする。撮る。

をひたすら繰り返していた。

何故か、柑橘が私の目を引く。
心を奪う。

帰路に着きながら、考えていた

「柑橘が美しいのは勿論だよね。
 私が柑橘を好きだからなのか、
 黄色、オレンジが好きだからかな
 たくさん実をつけている様を目にしないからか」

柑橘を植えようと思った人が町中にいるその事実に引かれたのだろうなと、結論づけた。


私は田舎の価値観とは反りが合わず、出て行った、飛び出した人間だ。

そんな人間が田舎を歩いていると、美しいと思うこと、ものが目の前に表れ続けて、嬉しくなった。安堵したのかもしれない。

田舎に住み続けることはできないが、田舎で生み出されたものは美しく思っている自分に。

矛盾だらけだ。
でも、それでいい。

忘れたくない、矛盾だらけでいいことを。
なにも統一しなくていいということを。

かぼちゃは嫌いでも、さつまいもは好き。
トマトは好きでも、カットされていないトマトは苦手。

周りに、え?って、聞き返されることなんてたくさんある。

食べ物の好き嫌いに対するリアクションに傷つくことがないように、少し複雑化した矛盾のようなことも真摯に受け止めて、傷つく必要などない。

食べ物の好き嫌いに対するリアクションを例に出すのは、安易すぎたかもしれないが。

食べ物は人類共通で話せる。
田舎は好きだけど、田舎には住み続けられないけど、田舎に住んでる人が生み出したものは美しいと思える。

こんな話をしたら、一蹴されることの方が多いが、人間誰しも、自分のテリトリー外のものに対する反応はどちらかだ。

ひとつは、意味がわからないものへの否定や考えることを放棄し、自分の知りうることが正しいと相手へ押し付けし、自分は大丈夫だと安心させるリアクション。

ひとつは、新たな考えを受け入れるために、さらに深ぼるリアクション。

前者の反応も正しいと思う。それ以降の健全な人間関係を構築していくことには欠けるが、自身を守るためには必要なことであり、傷つかなくて済む。そちらの方が消耗するものは少ない。考えることもしなくていい、会話をしなくてもいい。

後者の反応は、個人的に、私が向けられた反応としては嬉しいだけだ。
それと、コミュニケーションはとれる。笑

どれだけ、相手を見ているかで反応が違うのかもしれない。


東京にはない「柑橘」を撮っている時は、ただ美しいと思ったから、撮っていただけなのに、こんなにも思考が広がってしまった。

それも一興

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