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【効いた曲ノート】レイフ・ヴォーンウィリアムズ"交響曲第5番"-ほんとうのかなしみは、静かで、優しい。




広島と長崎の原爆投下の日、終戦記念日、8月上旬は戦争について考えさせられることの多い時期です。(8/6の投稿を目指していましたが鹿島でアレであり、翌日の仕事も死んだのでこのありさまだ)

そういうときに思い出すのが二度の大戦を経験した作曲家、レイフ・ヴォーンウィリアムズ。戦争がより大規模に、そして凄惨になるにつれて音楽もまた"クラシック"的な秩序の崩れた不安定で暴力的な曲調になったり、政権を暗に、もしくは痛烈に批判したり、それでも人間性を信じたり…ニールセンの第4番ショスタコーヴィッチの第5番などが有名ですが、イギリス民俗音楽と教会音楽を愛し、自らの創作の背骨としてきたレイフ・ヴォーンウィリアムズ(長いので以下RVWと表記します)もまた、二度の大戦が作風を変化させました。交響曲第5番は第二次世界大戦の最中1943年に発表され、初演はドイツ軍の空襲警報の中行われたといいます。






第3番の慟哭と第4番の怒り


この曲の話をするためには少し前の作品の話もしておきたいのでここでしておきます。

RVWは第一次大戦で志願兵として戦闘に参加しています。その時に共に民俗音楽を採集する仲であった無二の親友、バターワースを喪いました。全身に銃弾を浴び、激戦のため遺体も回収されることがなかったと言います。その嘆きと悲しみはいかばかりか...戦没者への哀悼を表して交響曲第3番が描かれています。今回の第5番と同じく優しい曲調で「田園交響曲」と銘打たれている通りの美しい曲ですが、戦争のもたらすものに対する悲しみ・無念さが随所に現れていて、第二楽章の軍隊トランペットをモチーフにした長大な挽歌や第三楽章の物々しさ、そして最終楽章には消え入るようなヴォーカルと堰を切った慟哭のような強奏が駄目を押します。

ちょっと脱線してしまうのですが、この第3番も素晴らしい曲です。ただ「癒される」だけではない、深い部分の癒えることのない悲しみを、大袈裟に訴えるでもなく、卑屈に詰るでもなく、ただ控えめに寄り添うように呈示するところが魅力のように思います。それは民俗音楽や教会音楽の歴史が培ってきた叡知であったり、作曲者自身の人格的な美点なのかもしれません。



交響曲第3番は嘆きと悼みのまま閉じられますが、戦間期の交響曲第4番は再びの政情悪化に対する怒りや不安がぶつけられたかのような攻撃的な曲調が支配する曲になっています。そして、本当に起こってしまった二度目の世界大戦。交響曲第5番はそういった背景で生まれました。


※作曲家本人は「時代背景で音楽を見る奴は絶許」っていってるので、あれなんですけれども、いうてもやはり芸術というものは(標題のない)絶対的な芸術を目指すものであっても創作時の状況というものを反映せざるを得ないと考えられますので今回あえてこのように描写しています。



第5番の祈り


この第5番は先述した第4番からがらりと変わり、第3番に回帰したような進行を見せます。田園風景をイメージさせる第一楽章、上品さの中に混沌と狂騒が見えそうな第二楽章、静謐なコラールと悲痛な強奏のメリハリが哀しく美しい第三楽章(この第三楽章がほんとうに美しいのでこれだけでも是非聞いてほしい...)、戦禍で傷ついた聴衆(もしくは作曲者自身)に優しく語りかけるように書いたのでしょうか。



そして、最終楽章、締めくくりの曲で第3番の慟哭と哀悼の先を示します。それはおそらく「祈り」。

宗教的にもっとも崇高とされてきたニ長調(音名Dが神を意味するDeusの頭文字であるため)をベースにした古典的なメロディが折り重なってパワーを増していき、楽団全体でエネルギーに満ちた賛歌を奏でます。そして、頂点に至ると力強い第一楽章の最初のメロディへ回帰。ベートーヴェンなどの交響曲から続いてきたお約束を踏襲して約束されたハッピーエンドを迎えると最後は最終楽章のメロディを、バトンをつなぐように楽器を渡ってリレーしてゆき、祈るように静かに、ですが明るさをもって閉じていきます。


戦禍の只中にあって、全くの"古典的"なお約束を締め括りに持ってきたことは逆に強烈なメッセージであるのでは、ということが先の内容から伝わるといいな~と思いながら書いています。RVWの演奏を得意としていらっしゃる指揮者のは藤岡幸夫さんはこの曲についてこのようにのべていてわかりみが深い...。



以前もちょっと書いたが、若い頃は、熱狂や陶酔とは無縁のこの交響曲の良さが分かってなかった。
ロンドンにいるマネージャーのニックに「本当の悲しみを知った時にきっとわかるようになるさ…」
と言われた事もあった。



どうしようもない傷を受けたとき、傷を与えてしまったとき。再び繰り返さないためにはどうするのか。そのひとつに「祈り」がある、というひとつの境地がここにはあるのではないかと思います。第5番初演の時RVWは70歳。交響曲デビューは38歳と遅咲きの作曲家ですが、第3番はキャリアに戦争の影が降りた青年期、第4番は脂の乗りきった壮年期といえるところで、第5番で一種のさとりに達したのかもしれません(ちなみにむちゃくちゃ長生きして交響曲は第9番まで書いています)

「祈り」とは思うばかりで行動しないということではなく、もっと能動的で、実際的で、そして集団的なものだということを、綺麗なメロディを通じて身体で理解させられるから感動的するのではないかと、聴くたびに思います。おそらく多くの戦後の芸術が似たメッセージを投げかけている(広島平和記念公園の設計者丹下健三のメッセージもそうであったと解釈していますが)と思いますが、RVWのこの交響曲はその独自の作風によって嫌らしくなくすっと入ってくる祈りの形を生み出しています。


ついつい長くなりましたがつまり、RVWはいいぞ、ってことです。もっとベタベタな民族音楽ももちろん良いし合唱や室内楽もいいよ!



※このエントリは楽譜に付随する曲目解説と以下のページを参考に作成されました。筆者独自の解釈を大いに含みその記述の責任はすべて筆者にあることを付け加えておきます。

https://www.amazon.co.jp/Symphony-No-Ralph-Vaughan-Williams/dp/0193368242