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15歳の転校生

R50+  5500文字  1970年代中期
中二病こじらせ懺悔 15歳のおもいで
※興味のないかたはスルーしてください※

イントロ・タグ

ぼくが通った公立中学校の裏手に、警察学校がありました。文字どおりブロック塀を一枚隔てるだけで、授業中でさえ、隣接する運動場から警笛や号令が聞こえてきました。1976年 (中3) の春先、ぼくはその警察学校に住む女子生徒と親しくなります。ただ、当時のぼくは警察学校イコール「転校生が住むところ」といった認識しかなく、なぜか自分から距離を置いていたような気がします。


警察学校の住人

警察学校イコール転校生、の認識は、小5時の同級生K村くんから学んだことです。いつも明朗快活で、クラスの人気者だったK村くん。ぼくとはとても仲が良く、彼の御宅にもしょっちゅう遊びに行きました。それが警察学校の社宅で、お世辞にも裕福とは言えない趣きだったものの、公団住宅で暮らす他の同級生とは明らかに違った空気がありました。買い食いが禁止されていたり、門限が厳しかったり、子供心にも気高さが感じられたのです。別のクラスにはムーミンという渾名の、やはり警察学校に住む生徒もいて、K村くんとムーミンはいつも行動が一緒。その親密な間柄には、ぼくら一般人が割り込めない連帯意識が存在したようです。いま思うと、きっとそれは「数年後に転校する」諦めだったのでしょう。

中学にあがる直前、果たしてK村くんもムーミンも転校していきます。あらかじめ決められた宿命に従うように、思いのほか呆気なく。

中2の春、一人の女子生徒が転校してきました。気付いたときにはそこにいた、といった佇まいの、清楚で控えめな女の子でした。K内さん、肩まで伸ばしたセミロングの髪をきちんと分ける、警察学校の住人です。別に意識したわけではないですが、ということは、いつかは転校する、という現実をぼくは胸の奥底で理解したはずです。たしか中2の三学期から、クラブ活動の新年度体制が始まりました。ぼくは陸上部の主将に、K内さんは図書部の部長にそれぞれ選ばれ、クラスは別でしたが (人気芸能人にも似ていて)、なんとなく気にするようになりました。

中学時代のぼくは、一応、文武両道に励む優等生でした。ただし、女子には全然モテず、色恋沙汰にも敏感なくせに無関心を装う、近寄りがたいオーラを発していました。要は、人見知りの激しい性格が災いして、いたずらに高いプライドの障壁を築いていたのです。本音は女子と喋りたいのに「オレ興味ねぇし」の硬派ポーズを崩さない、みたいな。とはいえ、一皮むけば中身は健全な思春期男子。そりゃ、もう溢れんばかりの妄想で鼻血ブーの毎日です。もちろん密かに恋心を寄せる女の子もいて、そのことをぼくは親しい友人にさえ隠していました。好きな子の名前がバレるだけで軟弱なチャラ男に認定される、と怖れていました。それは、すなわち彼女への背徳行為。ホント、面倒臭い中二病ですね。

たぶん、かなり年上の女性でなければ、思春期のぼくは扱えなかったでしょう。あるいは、難しいお年頃の機微を分かってくれる分別者。

ところが、まさにそんな眼差しでぼくを見ている女子がいたのです……。陸上部のN口くんが吉報を届けてくれたのは、中3になって間もなく……。

「図書部のK内、おまえ (=ぼく) のこと好きやねんて。E口に言われた、返事きいてこいって」「話したこともないけど」「おまえも可愛いって言うてたやんけ、付き合えや」「付き合う?」。E口さんというのは図書部の副部長で、常にK内さんと行動をともにする女子生徒です。当時は世話焼きにピッタリの役回りが必ずいて、情報の橋渡しをしてくれました。個の伝達ツールがない時代、みんなウザがりながらも重宝していました。「ほな、おまえも好きって言うとくぞ」「ちょ待てよ」。もとよりデリカシーがあっては世話焼きは務まりません。

それより肝心なのは、ぼくが恋心を持っていたのか、という点。まあ、好意は抱いていたのでしょうが、もっと自発的・直情的な感情を。

プラトン的逢瀬

N口くんE口さんのおかげで、噂はいっぺんに広まりました。とはいえ、ぼく自身は、付き合うってどういうことなのか、判っていませんでした。当時の中学生はいまよりもウブで、情報も限定的、同世代の経験談だけがなによりの頼りです。そして、冷静に思い返しても、中3の春先時点で大人びた恋愛経験/性交渉を持つ友人は、一人もいなかったのです。ともあれ、この年頃で発育が早いのは総じて女子、あまりにも無頓着なぼくに痺れを切らしたのか、ある日、理科の観察記録で早朝登校すると、K内さんとばったり遭遇しました。その体で、実はぼくを待っていました。

「おはよう」
「あれっ、なんで?」
「毎朝、こんなに早いの?」
「えっ、うん、まあ、大体」

以後、ぼくらは始業前に学校 (階段の踊場) で話すようになります。それまで異性と話すことがなかったぼくには、なにもかもが新鮮で刺激的。不確かな恋愛感情はいったん脇に置き、他愛もない言葉のやりとりにさえドギマギしました。事実、彼女の精神年齢はぼくより高く、女子中生のリアルな考えも含め、教わることは驚きの連続でした。出身は和歌山県、図書部は暇つぶしの極致、好きな本は「ドリトル先生」、E口さんとは絶対に離れない、トイレまで付き添う、お父さんは鬼より怖い、家には手錠がある、チューリップの「ぼくがつくった愛のうた」が大好き、そして、ぼくのことをお母さんとよく話題にする。「えっ? お母さんに言うてんの?」「うん、学校でいちばん優秀で、いちばんスポーツマンって」。

「何それ?」
「でも恥ずかしがり屋さん、いつも怖い顔してる」
「怖い顔、してる?」
「ううん、私には優しい顔」

忘れられないのは、やはり「ぼくがつくった愛のうた」の歌詞を教えてくれたことです。「あの歌の三番、知ってる?」「三番まであったっけ?」。正直、ぼくはテキトーに相槌を打ったのですが、あとで調べてビックリ。時間軸の飛躍、世代を跨いだ展開、そういったパースペクティブは初めてだったのです。しかも、その想像図に収まるのがぼくとK内さん、もう胸がキュンキュンです。K内さんってスゲー大人やな、そんな見方するのか。

長い月日が風に流れ ぼくらの子供も恋をして
家を離れていったとき、小さなシワがまたひとつ

もしも もしも ぼくよりも きみが先に死んでも
きみのために歌うだろう ぼくがつくった愛のうた

いとしのEmily

そういえば、一度、K内さんが遅れて来たことがあります。いつもの時刻に現れないので、ぼくは三階校舎から東隣の敷地 (警察学校) を窺います。塀の向こうに、駆足で急ぐK内さんの姿が見えました。と、彼女はブロック塀の控壁によじ登り、誰も見ていないか左右を確認、カバンを先に放り投げた次の瞬間には、身を翻して塀を飛び越えていました。そのときの、ひらりと捲れたスカートから覗いた生脚。コマ送りのように焼きついた、彼女の一挙一動。もう心臓がバクバクでした。女子があんなことをするのか、という驚き以上に、彼女の肝っ玉に圧倒されました。お父さんに見つかったときの恐怖を考えれば。「だって、正門まで回ったら 5分はかかったもん。早く会いたかったもん」。

そんな日々が一月ほど続いたでしょうか。思春期の成長は、しかし一日一日が新ページです。おたがい3年の新クラスに慣れてくると、いつのまにか二人の早朝逢瀬も無くなり……。具体的なきっかけもなく、自然消滅という言葉がピッタリするのだろう、とぼくはてっきり……。

二股疑惑

1976年10月23日、ぼくはT家さんとの交際をスタートさせます。ぼくから電話をかけ、告白して、承諾をもらう、いわば正式な恋愛。

note の読者にはもうお馴染みですね。T家さんはかけがえのない、ぼくの人生初の恋人です。ここから足かけ5年 (15歳~20歳)、ぼくとT家さんは青春の、人生の、もっとも貴重な時間をともに過ごします。もちろん大人へのステップもあれこれ経験したわけで、おもいでの対象としても、記録に残すべき事柄としても、K内さんと比べればそれこそ1000 : 1の違いはあります。しかし、T家さんは本稿の主役ではありません。むしろ反対に、共有するおもいでが少ないからこそ、行動が伴わなかったからこそ、後年、何倍もの追憶リベンジに襲われることはあるのです。

T家さんとの交際は、ぼくの日常を変えました。交換日記、電話、校外デート、めくるめく時間が色付き、昼も夜も、ぼくの眼中にはT家さんしかいませんでした。すると、K内さんはもうただの同窓生、たまに廊下で擦れ違うぐらいで、別段、言葉を交わすこともなくなります。何度か、隣のE口さんがぼくに何か言おうとしましたが、K内さんが曇った表情で「やめて、もういいって」

そして、あの朝を迎えます。交換日記を渡すために、T家さんと待ち合わせた始業前。教室の隣にある階段の踊場で話していると、サッと人の気配がしました。また冷やかしか、と思ったところ、その人影は固まりました。見ると、血の気の引いたK内さんが棒立ちで立っています。数秒、K内さんはぼくとT家さんを交互に見つめ、状況を確認。手にしたハンカチで口元を押さえるや、速攻ダッシュです。何も知らないT家さんは、不思議そうに首をかしげるばかり。そのときになってようやく、その踊場が半年前にK内さんと早朝逢瀬に使っていた場所であることに思い至りました。N口くんから思いも寄らないことを告げられるのは、それからしばらくのこと、もう年 (1977年) も変わっていました。

「おまえ、K内の気持ち、考えたことある?」
「えっ?」
「T家と付き合ってること、K内には言うたんか?」
「はあ?」
「最低でも、K内に別れよって言うたんか?」
「そんなこと言うか?」
「言わんのか?」
「言う筋合いあるか?」
「なにも言わんかったら、向こうはまだ付き合ってると思うぞ」
「そんなアホな」
「アホはおまえや、T家と階段の踊場でデートしたやろ。K内にしたら、寝室で浮気されるみたいなもんやぞ!」

N口くんがE口さん経由で早朝の一件を聞いたのは、明らかです。それよりぼくが引っかかったのは、N口くんの節操のなさ。ぼくとT家さんの交際を知りながら、K内さんの身にもなってやれ、みたいなロジックは、当時のぼくには受け入れがたかったのです。第一、ぼくとK内さんのあいだに告白の相互確認はなかったはず、なのに、いまさら向こうに合わせるのはT家さんに対する裏切り

それからというもの、K内さんの存在が急に煩わしくなりました。E口さんとニコイチでいるシルエットを、ぼくは意識して避けました。

卒業文集

2月、私学受験が近づいた頃でした。突然E口さんが現れ、「これ読んで」と封書を渡されました。いったんぼくはその手紙を手にしたものの、ほとんど第六感で、公衆の面前でこれを受け取るのはマズイ、と。背後にK内さんの姿は見えません。「やっぱり返すわ」とヤケクソのぼく。「K内から預かったんやけど」「要らん」「酷くない?」「もうええねん」。ぼくの脳裏に映っていたのは、ただT家さんの面影だけ。二度三度、手紙は押し問答のように二人のあいだを行き来しました。ぼくは、しかし、頑なにそれを受け取りませんでした

そして、3月、だしぬけにその日はやってきます。朝礼時、校長が転校生のリストを読みあげるなかに、ぼくはK内さんのフルネームを耳にします。どこか遠くで、残響するかのように……。えっ、転校するのか、という事実を受け入れるまで、少し時間が……。

いや、ウソです。そのとき、ぼくは、心のどこかで、ホッと安堵の溜息をついたのです。

それが、どういう種類のものなのか、自分でも分かりません。ただ、そう思ったのは事実であり、白状するなら、ぼくはずっと以前からその現実をひそかに待っていた気さえします。結局、その発表が行われたとき、K内さんはすでに引越していました。いつのまにかそこにいた、その出会いと同じように、気付いたときにはもういない、まるで転校生のお手本のような去りかたでした

ところが、こうして何事もなく終わった別離が、逆にぼくを囚えます。何事もなかった、まさにその空白ゆえに。

卒業式の日、卒業アルバム&文集が配られました。公立入試が3月半ばにあるため (不合格者への配慮)、卒業式は公立の合格発表前に行われました。現在では信じられませんが、当時は卒業生の住所も卒業文集に記載。その住所録に、ぼくはただ一人だけ県外の生徒を見つけます。和歌山県新宮市、K内さん……。その瞬間、とんでもない過ちを犯したのではないか、といった疼きが……。

卒業文集の準備には、少なくとも一ヶ月はかかったはず。ということは、2月には住所録の原稿もできあがっており、つまり、K内さんの転校はその時点で決まっていたことになります。ちょうどE口さんが手紙を預かってきた時。ぼくが受け取りを拒み、内容は結局わからない手紙。そこに何が書かれていたのか、K内さんは何を最後に伝えたかったのか。後悔の種 (=手紙) は時流とともにさまざまな可能性を呼び寄せ、それも、40年〜50年のスパンでぼくの追憶を侵します。K内さんが好きだった「ぼくがつくった愛のうた」の歌詞の、遠大なパースペクティブで

みんなと一緒に卒業できなかったK内さん、卒業文集に一人だけ、転校生としての宿命を記さねばならない中学生の心の内は、どんなものだったのでしょう。同窓会があるなら、数年おきに引越を繰り返す転校生にその連絡が届くのか、ああ、ぼくはなんてガキだったのでしょう。



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