Spotify「Sigur Ros 20」
「( )」が発売されて 20周年らしいので、ぼくと Sigur Ros との付き合いも 20年になりました。ミナミのタワーレコードで、手書きポップに魅かれて買ったのが 3rd「( )」でした。たしかポップには ~深夜に一人で聴き耽ってください~ みたいな惹句があり、この種のリテラシーはあるほうなので (ジャケット・デザインの見極めも含む) 躊躇することなく購入したわけです。冒頭「Vaka」のイントロからもう当たりを確信しましたね。
2002年 ( ) リリース
2002年といえば、ぼくは アラ 40で仕事に忙殺されていました。当然、青春時代のように純粋に音楽を楽しめるわけではなく、リスナーとしての耳もそれなりに成熟していました。良い意味でも、悪い意味でも。家庭を持ち、子供を持ち、仕事に明け暮れ、社会的責任を負う立場になると、やはり聴きかたも変わります。年齢的に、ぼくはほぼ親の立場で (子供の成長を見守るように) Sigur Ros に接してきた、とも言えます。事実 2003年の大阪公演には、妻と子供二人を連れて家族総出のライブ体験。行灯をたくさん床に置いた演出がとても耽美的で、ボウイング・ギターの唸りは会場を異空間に変えていました。ピアノの音色が静寂のなかで残響するかと思えば、クリムゾンばりの轟音がクライマックスで炸裂しました。
その実体験もあり、プレイリストの1曲目「Vaka」& 最終曲「Popplagid」は即決。アンコールの位置に「Hoppipolla」を置いています。
良い点/Speciality
Sigur Ros に好感が持てたのは、まず音作りの姿勢でした。アイスランドの片田舎の青年たちが、好奇心の赴くままゼロベースから音を収集・構築・実演するイメージがありました。このニュアンスは初期 Pink Floyd のサイケ感にも似ています。また、ややベタではあるものの、芸術至上主義っぽい雰囲気が、若々しくてよかったです。ホープランド語 (=架空の言語) で歌う、なんて公言できないですもの、フツーは。サウンド的には 2nd「Agaeis Byrjun」におけるキーボード Kjartan の加入が大きかったと思います。彼が抜けていた 2017年の来日公演で、それは痛感しましたね。大好きな「E−Bow」のクライマックス 6分 38秒からのピアノが抜け落ち、それをギターで補っていましたから。いやいやマジかよ。カネ返せって。
周囲の環境にも恵まれていた、のは事実です。Radiohead が後押しをしてくれたし、アイスランドつながりでは Bjork が先にシーンへ躍り出ていたし。2000年前後の MV も突飛な発想でなかなか好評でした。余談ですが、1st「Von」のジャケットも、乳児の顔面アップがおじさんプログレッシャーにはまたツボでした。Tangerine Dream の「Atem」を連想させましたから。アンビエントの実験性も似ています (はっきり言って苦痛です)。
ことほど左様に、ぼくはバンドの成長を「育成ゲーム感覚」で応援していたのです。4th「Takk」までは、順風満帆と言ってもよかったでしょう。ただ、徐々に「ポストロックの最重要バンド」みたいな扱いで語られだすと、おいおい待てよ、と急に心配になってきました。家庭内で我が子の成長を見守るのと、学校や社会における我が子の立ち位置を客観視するのとは違う、そんな感じでした。
悪い点/Shortcoming
2008年、三年ぶりの新作 5th「残響」が発表されたときに、ぼくの懸念は具体化しました。プロデューサーのマーク・エリス起用も含め、バンドにとってはかなり冒険をしたアルバムだったのですが、ぼくにはその効果が空回りしているとしか思えませんでした。ブラスの導入、英語歌詞の採用、アコースティック回帰、等々いくつかの評価ポイントが中途半端に終始している、と。それらの要素よりもさらに痛かったのは、根源的な問題として「新しい曲がひとつもない」という感想を持ったことです。早い話、どの曲もこれまでに聴いたことのある焼き直し、に思えたのです。とくに「Festival」4分 40秒からのベースラインが極めつけ、これは「Glosoli」3分 50秒からの安易なパクリではないのか。
Georg、おまえ何年ベース弾いてんだっ、とぼくは父親のつもりで独白説教しましたね。「Festival」後半のあの単調すぎるリズムはないわ、中学生のお友達バンドでもあるまいし。それから Jonsi も、ファルセットのヴォカリーズ (ホープランド語) に限界を感じてきたのはわかるけどさ、英語歌詞を採用したとたんにグルーヴ感ゼロがバレバレだろうが。それを補うためのブラスだったとしてもだ、これまでロック・バンドが新味を出そうとブラス隊を入れて成功した例が一体いくつあるのか、ましてやそのせいで基本サウンドを殺してしまえば、全然リターンと見合わないだろっ。
ファン心理とは不思議なものです。あれほど入れ込んでいたのに、あるいは入れ込んでいたからこそ「玉に瑕」が許せない。それが保護者の立場になると、なおさら社会的な評価やら人気やらが気になり「転ばぬ先の杖」を用意してやりたくなる。もはやバカ親の心境でしょうね。
しかし、冷静に見ても Sigur Ros の魅力をアピールする最適解の音像は、やはり「Takk」のようなサウンドです。Jonsi の声色と歌唱法、Georg の朴訥としたベース・テク、Kjartan のクラシカルなアレンジ処理、幻想的なボウイング奏法、浮遊感を醸すアンサンブル、それらを効果的かつ自然に融合させ、轟音と静寂の対比による天上感/至福感を現出させるのが、Sigur Ros の生命線ですから。思いきり乱暴に言えば、雰囲気最重視のバンドなのです。個々の技術面にフォーカス (分解) された時点で、すでにリスナーは批判的に身構えています。
アンコール
メンバー自身が誰よりもそのことは分かっているはずです。続く「Valtali」では静の原点回帰、「Kveikur」では対極的な動の発露、を試すものの、残念ながら、俯瞰すれば長いトンネルに入った感は否めません。2022年現在、最新ツアーのセットリストを見ると、はっきりとそれは伺えます。ほとんどぼくのプレイリストと同じですから。つまり、2002年 ~ 2006年あたりで彼らの創造性の時間は止まっているのです。
アーティストとして、いま現在、Sigur Ros はとても大切な局面を迎えているような気がします。このまま「狭い範囲の成功」で終わるのか、次なるステージへと昇るのか、彼らの年齢を考えると正念場かもしれません。Kjartan が復帰したことですし、新譜のリリースを固唾をのんで待ちたい、正直そんな心持ちです。その裏側にはもちろん「しっかり頼むぞ、オレを踏み越えていけ!」といった親心が存在します。はい、もうお気づきでしょうが、この親心が実に厄介でして……。おそらく本稿の内容も Sigur Ros ファンの逆鱗に触れるのは覚悟のうえで……。
いや、白状すると、生粋のファンだからこそ「ファンとしていちばん言われたくないことを先に言った」のが正直なところです。このアンビバレントな愛憎を抱きしめられて、はじめて「推し」の沼にも飛び込めるというもの。だから、もし新アルバムが駄作だったとしても、この先ずっとショボイ末路が待っていようとも、ぼくは Sigur Ros を聴き続けます。それでも、ぼくはいつか生まれて来るであろう傑作を信じています。
親は決して我が子を見捨てません。その小さな光を込めて、ぼくのプレイリストのアンコールは「Hoppipolla」なのです。
それでは、また。
See you soon on note (on Spotify).
追記――。アラ 40のとき、ぼくが上記のような考えだったことにウソ偽りはありません。いま振り返ると、家庭/職場において本当にイヤ~な父親/上司だったろうな、と恥じ入るばかりです。そういえば、S木くん・N川くん・I 藤くん、いつものメンバーに Sigur Ros を熱烈レコメンドしたのも、ライブに誘ったのも、みんなぼくだったわけで、古き良きプログレへの郷愁を喚起してくれたのですよ。