Spotify「Shai Maestro 20」
ECMは、ジャズ・ファンにお馴染みの名門レーベルです。ジャケットの美しさもさることながら、そのスローガンが必要十分的にサウンドの特徴を表しています。曰く「沈黙の次に美しいサウンド」。ぼくみたいなジャズの邪道は、ECMとの邂逅も80年代の Steve Reich や Arvo Part の現代音楽のほうが早かったりするのですが、ジャズのなかでもエレクトリック・ジャズやフュージョンに親しんできた経緯もあり、ECMがちょうどイイ感じにフィットします。誤解を恐れずに言うと (逆説的ですが)、高尚なイージーリスニング。肩肘はらずに聴ける音楽、という意味です。
2019年、コロナ禍によるステイホームが始まったとき、暇にあかしてぼくはECM音源を聴き漁ります。そのときに出会ったのが Shai Maestro です。なんと大層な名前、とはじめは訝ったものの、彼の旋律を聴きこむうちに確信したのは、名前に偽りはないこと。イスラエルのマエストロ。
1987年イスラエルに生まれた Shai Maestro は、5歳からクラシック・ピアノを、8歳からジャズ・ピアノを始めます。8歳からジャズ、というこの開始年齢は、奇しくも上原ひろみと同じで、Oskar Peterson に導かれてジャズにのめりこんでいった成行も共通しています。もちろん Shai も早くから才能を発揮、15歳・16歳とイスラエルのジャズ音楽祭「Jazz Signs」で連続優勝を飾ります。また、バークリーの夏期コースで特待生としての入学権利を授かるものの、これを辞退してプロの道へ。2006年、弱冠19歳でAvishai Cohen Trio に抜擢。イスラエル・ジャズ界の真中へ躍り出ます。
Avishai Cohen といえば、90年代にイスラエル・ジャズ発展の礎を築いた立役者。まるで歴史の必然のように、繋がるときは繋がるものです。
実際、ぼくの愛聴遍歴と照らしても、これが不思議と繋がりました。フュージョンからジャズに近づいたぼくは、70年代に Chick Corea/RTF を好んで聴き、例えば「浪漫の騎士」などはほとんどプログレと地続きで捉えていました。その Chick Corea のもとでベーシストの技量を高めたのが Avishai Cohen であり、世界の距離が著しく縮まった時流 (90年代) に乗ってイスラエル・ジャズの発展に寄与したのも、彼の大きな功績。その彼が、新トリオに抜擢したのが Shai Maestro とくれば、後追いで知ったとはいえ、まさにサウンドの命脈は続いていたことになります。
Shai Maestro のサウンドは Avishai Cohen ほどエスニック感が表に出ず、もっと広い欧米の知性に寄りかかった中毒性があります。インテリジェンスの美しさ。直情的に訴えるのではなく、いったん理性的な回路を通してタイムラグの感動が押し寄せる、みたいな。あるいは、アウトフレーズのわざと音程を外したような躓きを、曲の進行とともに叙情のなかへ覆ってしまう、みたいな。2018年にECMへ移籍してからは、この知性がより内省的に深まります。記譜とインプロヴィゼーションの違いが分からなくなるほど、その狭間は冴えた感傷で埋もれます。
このインテリジェンスに加え、Shai の温もりのある演奏は、ときに神々しく感じられます。「神技」とは不完全な人間が御業 (みわざ : 神のなせる業) の域に達することですが、Shai を通して感じた「神技」が、きっと10年遅れでぼくをイスラエル・ジャズに傾倒させたのでしょう。
拙稿「Avishai Cohen 20」「JKに聴く曲5選」で述べたように、ぼくの嗜好サウンドはイスラエル・ジャズと被るところが大です。反対に欠落しているのが、ギターと電子音楽の要素。ところが、この二つの欠落こそ、過去10年で相対的ポジションを大きく変えたサウンドの正体ではないでしょうか。2010年代が「ロック凋落の時代」みたいに言われるのは、なによりもロックの象徴であるギター音の非在化に顕れています。
かつてはギターヒーローがロックを牽引しました。ギター小僧はそれぞれ憧れの速弾きマスターを見つけ、その技術を懸命にコピーするなかでお気に入りの音源を見つけました。もちろん、現在でも速弾きの達人はいます。しかし、往年のギターヒーローが見せた人間離れした演奏は、いまでは人工的に編集されたサンプリングと区別がつきません。というより、今日ではギターもまたプリセットされた選択のワン・オブ・ゼムでしかない、という認識がロックにおいても「常識」になりつつあります。あと二世代もすれば、たぶんギターはロックの必須でなくなるでしょう。
他方、電子音楽の領域はこの10年でますます勢いを増しています。サンプラーのみならず、AIを含むテクノロジーを利用するのは、もはや自明。一言でいえば、創作スタイルが完全に変わってしまったのです。そして、忍び寄るシンギュラリティーの足音。
おそらく、ぼくの無意識はその足音を察しているのだと思います。察して怯え、反動的に、安心感を欲しているのでしょう。
失ってはじめて気付くもの、案外それが物事の核心に関わります。ぼくがこの10年の音楽シーンの変化によって再認識したのは、ああ、やはりぼくは人力プレイが好きなのだ、「神技」に触れたいのだ、ということです。こればかりは、頭ではなく、体に沁みついているようです。最近の若いアーティストの音源を聴くと、そこで鳴るギター音の「不確実性」にビックリするのは先述したとおりですが、さらに厄介なことには、ひとたびそのギター音に引っ掛かると、おちおち続きを聴いていられなくなります。このギターは生身の人間が弾いているのか、それともサンプリングなのか、と。
この認識が、ジャズへと向かうのは自然の流れですね。そこには安定した人力プレイが約束されています。そういった意味合いで、ぼくの嗜好サウンドに近い、プログレ + フュージョン + エスニック + アヴァンギャルド (チェンバー)、を満たすイスラエル・ジャズは、人生の最終コーナーを回ったリスナーにとってのファイナル・オプション。十代に見つけたプログレの金脈を再発見したような、静かなときめきを覚えます。
Shai Maestro の紹介から、ずいぶん飛躍したようです。ともあれ、彼のピアノには知性による美意識と躍動感が同居しています。ところどころ微かに躓く音程のズレ (アラビア音階) があり、その撒かれた不安の種は最終的にいっそうのカタルシスを呼び寄せます。あたかも理想的な世界の縮図を見るようであり、大人の人生を振り返るようでもあり、聴いているうちに「自分はどこへ行くのか」という小さな疑問が大きく結ぼれます。
過去に一度でもプログレに興味を持った覚えがあり、最近は何を聴けばいいのか分からない、とお嘆きの貴方。あるいは、昔からジャズには興味があったけれど、どうも敷居が高くて、と二の足を踏まれている貴方。そういった方々に、ぼくは強くお薦めします。イスラエル・ジャズ――。
騙されたと思って、まあ、聴いてみてください。よしんば「神技」を感じられなくても、そこにはヒューマンな音が必ずあります。