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香車のごとく

 今年の春、関西将棋会館を訪れた。私は会館一階に置かれたカプセルトイに百円玉を3枚入れ、ハンドルをガチャガチャと回した。

千社札

 毎日飽きもせずX(旧Twitter)で将棋界の情報を集めていると、ある日タイムラインに「棋士千社札シール」というものが出現した。寺社への参拝記念に貼られることがある千社札、その千社札風にデザインされたシールが関西将棋会館のカプセルトイで手に入れられるという話題であった。今年の1月末から3月にかけて第1弾(谷川浩司十七世名人、豊島将之九段、糸谷哲郎八段)と第2弾(久保利明九段、菅井竜也八段、大橋貴洸七段)が展開されており、4月からは第3弾が始まった。
 第3弾の棋士は藤井聡太竜王名人、杉本昌隆八段、澤田真吾七段だ。澤田七段の名前を見て私は早速、関西将棋会館に行った。幸運にも一発でお目当ての千社札を引き当てることができた。

 手に入れた千社札シールは大小2枚、大きいシールは棋士が選んだ色と好きな駒を用いて作成されたそうだ。澤田七段は黒と香車を選んでいた。香車は予想外だった。香車は真っ直ぐ前にしか進まない。もし私が香車を擬人化するならば、常に前向きで突破力がある反面、不器用で1つの事しか出来ない人物に設定するだろう。その香車と、盤上では攻守バランスが良く、盤外でもそつなく穏やかに振る舞う澤田七段の印象は、すぐには結びつかなかった。
 もっとも、選んだ駒と棋士の印象に必ずしも相関性があるとは限らない。好きな駒と言っても今回はたまたま香車を選んだということに過ぎないのだろうとも思った。だが、しばらく千社札を眺めていると「そういえば……」と思い浮かんだ一手があった。
 あれは香車のごとき一手だった。

東西対抗戦2021

 2021年9月18日、私は朝から将棋観戦をしていた。観ていたのはSUNTORY将棋オールスター東西対抗戦2021という棋戦の関西予選だ。東西対抗戦は2021年に新設された棋戦で、文字通り関東棋士チームと関西棋士チームとの対抗戦である。東西ともに、チームはファン投票上位2名(2022年以降は3名)と予選勝ち抜き者3名で構成される。加えて初手から1手30秒未満で指さなければならないという、持ち時間にも特徴のある早指し棋戦だ。
 この日、澤田七段は5局指した。その中で2回戦の福崎文吾九段戦が強烈に印象に残っている。この対局は将棋連盟ライブ中継アプリの棋譜中継はなく、中継ブログに結果と対局前後の写真のみ載っている。写真には先手から見て盤の右側に対局時計が写っている。予選には記録係がつかず対局者自身が対局時計を押すという対局規定があった。そのため盤のすぐ横、両対局者の手が届く位置に対局時計が置かれている。一手30秒未満というのは、この日の場合は〈考慮→着手→対局時計を押す〉という一連の行為を30秒以内に完了させるということになる。
 対局の結果は先手福崎九段の時間切れ負けだった。この切れ負けの瞬間を私はABEMAで見ていた。

対局時計

 ここからは私の記憶にもとづいて述べる。

 福崎澤田戦、局面は中盤か。ABEMAは4局同時中継中、解説は別の対局についている。形勢は自分にはわからない。それでも盤面を見る。応援する。
 両対局者は指す、時計を押すという一連の動作を繰り返す。澤田七段の所作は「静」の一語。考慮中の姿勢も手つきも時計を押す動作も、すべてが静かで淡々としている。私はそれをじっと眺める。
 先手の手番、ギリギリまで考慮しての着手。「20秒1、2……、8、9」対局時計の秒読みの中、危ういタイミングで先手は時計に手を伸ばした。その時、画面の左上から右下に向かって猛スピードで動く手が見えた。「えっ!」と驚いたのが先で、その次にもしかしたら先手の切れ負けかと思った。対局者同士が話し始めたのを見て終局を理解した。切れ負けだ。しかしあの手はなんだ。終局直前に突然現れた手は後手の右手だ。その手は本来先手が押すはずの対局時計のボタンに一直線に向かっていた。Twitterのタイムラインもこの手に反応した。先手の切れ負けを阻止しようとした手だろうというのがタイムライン上の共通認識だった。そして、その行為に対する驚きと称賛のツイートが徐々に流れてきた。

 ABEMA視聴者の驚きやTwitterの盛り上がりとは無関係に、その後も粛々と予選は進行していく。準決勝は劣勢から一瞬の隙をついた逆転勝ちだった。終盤の苦しい局面で守りに打った☖3一香は、4手後には攻め駒として先手玉に牙をむいた。決勝戦は序盤から終盤まで30秒将棋とは思えないほど安定した指し回しで勝ち、澤田七段は西軍の一員として年末の決勝戦に出場することになった。

もう一枚の千社札

 当時は勝ち抜けという結果を一番嬉しく思った。だが時が経ち、ABEMAの配信期間が終わり、映像が見られなくなって、それでもなお心に強く残り続けているのは福崎戦で見た終局間際の一手なのだ。自身の手番では常にゆったりと優雅な所作で押していた対局時計のボタン。あの瞬間だけ澤田七段の右手は真っ直ぐに、鋭く、強くボタンを叩いていた。その動きから何か駒を連想するなら、私はまごうことなく香車を思い浮かべる。

 3年前の出来事を懐かしく思い出しながら、私はまた千社札シールを眺める。ネット記事によると小さいシールに書かれた言葉はお気に入りの言葉らしい。澤田七段の千社札シールには「虚心」が採用されている。
〈先入観や偏見を持たず、ありのままを素直に受け入れることができる心〉
手元の辞書には言葉の意味がこう書かれていた。香車も虚心も彼によく似合っている。


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