長寿の天下人・徳川家康、源氏と称して幕府を開く
1.家康は源氏と称した...清和源氏の後継者
彼が征夷大将軍になり、江戸幕府を開いたのは関ヶ原の3年後、慶長8年(1603年)のことですが、そのとき家康は源氏の氏(うじ)の長者となったのです。
ちなみに織田信長は、元来は藤原氏ですが、自らは平家の出身と称していました。
征夷大将軍は源氏の系統からしか出ないので、信長は将軍にならなかったんですね。
信長にしてみれば自分が潰した足利幕府の足利氏というのはまぎれもない源氏だから、自分は平家でならなければならなかった。
当時は源平(げんぺい)交替思想がありました。平家を滅ぼした源氏の後の北条氏は平家で、その後の幕府を継いだのが源氏の嫡流(ちゃくりゅう)の足利氏。そして次に覇権(はけん)をとるのは平家だという考え方がありました。
ところが、秀吉はそんな高貴な生まれでないことは誰もが知っているから、結局、それまでの習慣によらず、源平藤橘 - げんぺいとうきつ - (源氏・平氏・藤原氏・橘-たちばな-氏)ならざる豊臣家というのを新たに作くり、将軍を飛び越して関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になってしまったわけです。
秀吉は天正10年(1582年)頃までは平(たいらの)秀吉と名乗っていました。信長の後継者ということであったでしょう。しかし関白になると平氏では都合が悪いので、公家の近衛(このえ)家当主・前久(さきひさ)の養子となって一時、藤原秀吉となったが、そこは秀吉で、新たな姓を創始しようと思った。 そこで当時の学者たちを招いて、古典や系図を研究してもらい、「源氏も平家も藤原も橘 も、皆その先祖は自分の力でその姓を朝廷から賜った。これが常道であろう」という結論を自分で出した。そして公家の人物を通じてこの旨を申し上げた。
そして天正14年(1586年)に「藤原を改め豊臣の姓を賜る」 ということになったのです。
一方、家康の家系は、元来は加茂(かも)氏であり、実は秀吉が豊臣を名乗る頃までは藤原家康と称していたんです。
家康が三河守(みかわのかみ)に任ぜられた時はまだ藤原家康であった。その後、天下の権を握り、征夷大将軍になるため ”源氏”になる必要が生じ、三河の吉良(きら)家の系図を譲り受け、これに松平氏や徳川氏を結びつけて、新田(にった)氏の子孫ということになった。
新田氏の先祖は八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)で、源氏の大棟梁(だいとうりょう)です。
かくして家康は、平家を名乗った信長・秀吉に交替する者として源氏と称して将軍になり、鎌倉幕府・北条幕府、足利幕府に次いで新しい江戸幕府を開いたのでした(ちなみに、 戦国武将の家では系図の売買や新規作成——つまりインチキ――は珍しくなかった 笑)。
2.家康の長寿が歴史をつくった
上記のように、家康は新田家の系図を買っていた。だから、その頃の宮廷の女官は家 康のことを「新田殿」と言っていた。
新田も足利も八幡太郎(はちまんたろう) 源義家の子孫である。
足利幕府の後に、秀吉という一代公卿(くぎょう)が支配したが、その後に新田幕府、つまり徳川幕府ができた。そして秀吉のようには京・大坂のあたりに本拠を置かず、源頼朝(みなもとのよりとも)の幕府の例に従って、権力の中心を関東(江戸)に移しました。
家康は、関東が源氏の本拠で、京・大坂はその出先という発想を書物から学んでいたからです。
そして将軍になった5ヶ月後に孫の千姫(7歳)と豊臣秀頼(11歳)を結婚させます。
さらに 2年後の慶長10年には将軍職を秀忠に譲った。そしてその翌年には諸大名を江戸にとどめるようにする。その後数年の間に、加藤清正、浅野長政、池田輝政、浅野幸長など、主立った豊臣恩顧の大名たちがポツリポツリとこの世を去りました。
家康は健康には特別に留意し、自分で薬を調合した人でもあります。
関ヶ原から14年も経った頃になると、もう徳川幕府に反抗できるような大名は1人もいない。
しかし、自分は年をとるばかりなのに秀頼はたくましく成長してゆく。徳川家の将来を考えると、将来の災いの元になる可 能性のある豊臣家は、自分の目の黒いうちに潰しておかねばならぬ、ということになったのでしょう。
落武者(おちむしゃ)探しも、いい加減だった関ヶ原のときとは打って変わって、大坂城を落とした後は執拗に行った。
薩摩(さつま)、屋久島(やくしま)、種子島(たねがしま)まで探し、さらに全国の440もの城を破壊したといいます…😱
晩年におよんで何が何でも徳川家を残そうと家康は考えたのでした。
そうして、大坂の陣は結果的には勝ったものの、大坂方がもっとまともに戦っていたらどうなったかわからない危ない戦いであった。
例えば、城というのはそう簡単に落ちるものではないんです。近代の世界の例をあげると、日露戦争におけるロシアの旅 順(りょじゅん)要塞もなかなか落ちなかったし、クリミア戦争の時、英・仏・トルコ連合軍が攻めたロシアのセヴァストポリ要塞も、10ヶ月も落ちなかった。
武田信玄も上杉謙信も小田原城を何度も攻めたが失敗した。信長もそれを知っていたから、謙信を迎え撃つため安玉城を作った。謙信がこの世を去ったから結果的に城を使う必要はなくなったが、安土城をつくっておけばさすがの謙信もそう簡単には落とせるわけがなく、そのうち越後は雪深くなるから帰らざるを得なくなると考えた......
それくらい城を力ずくで落とすのはむずかしいのです。
ましてや大坂城は秀吉が知恵と財力を惜しみなく注いでつくった天下の名城です。
冬の陣では、城を落とすどころか家康軍はひどい目に遭いました。真田幸村が築いた出城・真田丸(さなだまる)では幕府側は2万人が戦死したという誇張されたうわさが京都までとどいた。そのままぐずぐず1年も戦いが続いたら、いまは家康に味方しているものの、元来は秀吉にとりたてら れた大勢の大名たちが脱落してしまうかもしれない。そこで急いで和平条約にもっていきました。
ちなみに豊臣家は女が国を滅ぼしたといっても過言ではないのです。
先例では、平治の乱(1159年)で撃ち果た源義朝(よしとも)の子、頼朝(よりとも)を平清盛が殺そうとしたのを、清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)が説得して助命したばかりに平家は滅びた歴史もあります。
そういう例があるから、戦国時代は女に口を出させなかった。それが忘れられたのは、秀吉が征夷大将軍にならず関白になったことによって、豊臣家が武家というより宮廷風になったからです。宮廷というのは、平安時代を見ればわかるように 女性の発言権が強いから、結局淀君(よどぎみ)のような女性に牛耳られ、たとえば真田幸村(さなだゆきむら)のような人の戦略が用いられなかった。
少なくとも家康のを何度も破ったことがあるのは真田家だけだったから、戦争もしたことのない犬野治長(おおのはるなが)のような人間を軍の総司令官などにはせず、総大将は秀頼としても、武勇の誉れ高い真田幸村を総参謀長クラスにして戦っていたらどうだったでしょう......
大坂城は1年や2年は平気でもつ城だから、冬の陣からずっと戦いが続いて、 勝敗はどちらに転ぶかわからなかったでしょう。しかし、ここでも家康の運が物を言うのです。
とくに家康の場合は長寿と強運が分かち難い。
もし55歳(当時としては十分高齢)で亡くなっていれば関ヶ原の戦いはなかったかもしれないし、70歳くらいで亡くなっていても豊臣家は無事だったかも知れません。
つまりは、徳川時代は家康の長寿に基礎があったとも言えるんです。
そして、家康は大坂夏の陣の翌年に徳川家の将来に安心してこの世を去った。
最後に彼の辞世をあげます。
嬉しやと 二度(ふたたび)さめて一眠り うき世の夢は暁(あかつき)の空
武力で天下を取った天下人が、最期は自分の人生を『夢』と観じているのは面白くも感慨深いですね。
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最後まで読んでくださりありがとうございました🙇♀️
今回は歴史、2週にわたって天下人・徳川家康の怒涛の軌跡を書き綴りました。
これからもこのnoteアカウントを読書での学びのアウトプットの場として、活用していきます📚
特に好きな歴史・宇宙・脳科学の分野を中心に多彩なジャンルでの発信に挑戦しますので、今後ともお付き合いいただけるととても嬉しいです🙏✨