車への恐怖とひやっとした話
大学に行く時間になって、歩道を歩いて五分未満。交差点に差し掛かった時、赤信号で足を止めた。その日はゼミでいつもとは違う部屋を使う予定だったから、スマホで場所を確認していた。チャットアプリに表示された写真の中にある方角と数字を見て、あの部屋かと思い出していた。
確認も終わったので、チャットアプリを閉じて赤い音楽アプリをタップする。そこまで重くない鞄にスマホをしまってから、代わりに白いワイヤレスイヤホンを取り出した。パカリとケースを開けて、右耳にイヤホンを付け、左耳にも同じように装着しようとした時だった。
トンッと何かが体を当たった。びっくりして右後ろを見るとゆっくりと動いていた自動車がいた。当たったのは自動車だったらしい。自分がいる場所が歩道であることを確かめてから、もう一度自動車を見た。至近距離をバックで進み、車道に出ようとしているようだった。
私が立っていた場所は歩道で間違いないのだか、その横には飲食店がある。車はそのお客さんだったらしい。前向き駐車していた車がバックして、車道に出てくるときに私にあたったのだと理解する。
目と鼻の先くらいの至近距離で車がなおも動き続けていた。動いている車にあたられる経験がなかったので、驚きと恐怖で固まってしまった。車内にいる夫婦らしき二人は特に何も反応していないようなので、こちらには気づいていないのだろう。とはいえ、とてつもなく戸惑い処理が追いついてない。
気づいたら信号は青に変わっていて、自動車も走り去っていった。時間も時間なので信号を渡り始める。ワイヤレスイヤホンはしまった。今日はやばい日かもしれない。体が血の気が引いたように寒くなった。
次の信号を渡り切った頃、ようやく落ち着いてきた。まだ学校にもついていないのに疲れてしまった。まだ数分しか歩いていないはずなのに。しかも、少し当たっただけで外傷は何一つない。あれがもう少し早く動いていたら跳ね飛ばされて車道に出ていたし、生きていなかっただろう。
とはいうものの、怖かったのは事実だ。周りの人からしたら「よくあること」か「大したことはない」普通のことなのかもしれない。しかし、石橋をたたきすぎて割ってしまうくらいの自他ともに認める心配性の私にはそんな些細なことも恐怖し、考えずにはいられなかった。
20年くらい生きてきてこれまで大きな怪我にも事故にもあったことはない。幸いなことに病気も特になく、時折ストレス性の過呼吸や過換気症候群でぶっ倒れるくらいで健康体に生きている。不安しいなのは昔からだし、過呼吸とはもう10年近くの付き合いである。そして今後もおつきあいしていくので特に何もない。
そんな私が車にあてられただけで悶々と考えてしまうのは当然のことだと思う。これまで交通事故にあったことはないのだが、あいそうになったことは何度かある。特に忘れられないのは小学校高学年の頃の話。習い事から自転車で帰っていた時のことである。
習い事が終わり、7時過ぎのころ。すでに日は暮れていたから秋か冬かそのくらいの時期だったと思う。習い事は徒歩か自転車か悩むくらいの距離で、その日は自転車を使っていた。地元は坂が多い場所で、習い事の教室までは坂を上がり、帰りは下り。しかも坂が急な方で帰り道はちょっと楽というおまけつき。坂は後々通う中学校と隣接していて、夕方になると中学生が通っているような道だった。
その日も普段通り、自転車で走っていた。結構なスピードを出して、車道を下る。すると、前方にライトが見えた。車のライトで、こちらには気づいていないようにも見える。びっくりして急ブレーキをかけた。相手も気づいたようでブレーキをかけたのだとわかるように止まった。体感時間数分、お互いに止まったままでいたが、車に乗っている人が「どうぞ」としてくれているのを見て、会釈をしてそのまま進んだ。お互いに事故にもならなかったちょっとした出来事。私の人生で初めて事故に合うかもと思った瞬間だったからか、鮮明に覚えている。
その時も考えたのは「飛び出し注意」の看板だった。自転車と自動車がぶつかりそうになっている絵が描かれた標識かポスターか何か。まさにあれになる直前という形だった。
勿論、事故になることはなく接触することもなくで終わった話。あれから交通事故には本当に気を付けようと思うようになった出来事だった。おかげであれからも事故に合いそうになったことはあれど、事故に合う前に気づいて無事である。いつあってもおかしくはないので気を付けるに越したことはないのだが。
自動車との交通事故についてちょっと考えていたけれど、どうしてそんなこと考えてしまったのか?と思い直してみたら、車にあてられたことと数日前に話していたことを思い出したからかと納得した。
数日前、ちょっと話していた相手が夏に交通事故に合ったらしい。幸い命に別状はなく、元気に過ごしていたのでよかった…?のだが。
そういえばとその時に去年の今頃、お世話になっている先輩も交通事故に合っていたなと。で、別の先輩も車に乗っていた時に事故に合ったとか。人との接触はなく、エアバックのおかげで傷一つなかったらしい。あとは一度会ったことのある他校の知り合いも交通事故に合ったとかなんとか…
あのころ、異常に交通事故に合う人が周りにいて驚いたことを思い出した。なお、お世話になっている先輩は肩に後遺症が残っているらしいが、生活に支障がないと元気に仕事をしている。生命力なのか社畜精神なのか。
という話をしていたからか、次自分があったらどうしようとか考えてしまったのだろう。気を付けていたとしてもなる時はなる。不安になりすぎである。
自動車関連でいえば、自動車学校の学科の授業も印象的だった。適性試験か何かの時だったと思う。事故について起こさないようにするためにちょっと怖い映像を見せられたのだ。女性が4人車に乗っていて、法定外か何かのスピードで自動車を走らせ、運転手以外の友人が全員亡くなってしまうという話。血まみれで恐ろしかった。
あの時に思ったのが自動車を乗ることは鉄の塊という凶器を操縦しているということ。イメージ的には包丁を持って道を歩いているような感覚を考えてしまった。こんな話を免許を取得してから知り合いに話したら「考えすぎだよ」と言われてしまった。正直それがあるので一人で車には乗れていない。職業柄車に乗っている父に助手席に乗ってもらい、地元をちょっと走るくらいである。
あとは自動車学校の先生が一人だけ怖い人がいて、その先生になりませんようにと願っていたなぁという思い出はある。最後の試験は他の先生たちからも運転がうまいと言われる教え方が上手な方が監督をしてくれたのでちょっと安心したのは何気に覚えていることである。
こうして考えてみると交通事故に対して恐怖を感じていることから、死ぬことが怖いと思っているのだと考える。「交通事故=死」または痛い思いをするみたいな等式が頭の中にあるのかもしれない。常々、惰性で生きているように感じてしまい、「何で生きているんだろう」とか「生きがいがない自分はどうすればいいのだろうか」とか考えてしまう。そんな私でも「死」には恐怖しているのかと少しの安心してしまう。
本能的にはまだ「生きていたい」と思っているのか、または死ぬのが怖いからとりあえず生きているのか、どちらにしろ「生きようとしている」だけで儲けものである。過呼吸になる時だって、息が苦しくて死ぬのかな?と思う時に恐怖を感じているから、生きていたいんだなと再認識する。
これがひねくれているのか、よくわからない。とはいえ、今生きているのでとりあえず大丈夫かなぁとプラスに考えたい。やっぱり、人生はなんとかなるもんである。車にあてられただけでこれだけ考えることができるなら、少なくとも1ヵ月は無事に生きられるんじゃないだろうか。絶対なんて言葉はないので、明日か今日か交通事故に合うかもしれないけれど。ひとまずは無事でいたいと願う今日この頃である。