作ることの楽しさとクリエイターとしての成功は切り離され、もはや別物になった
イラスト。小説。漫画。映画。絵画。彫刻。何でもいい。
とにかく何かを最初から最後まで作り切った経験がある人は、そのことでしか味わえない喜びや興奮を感じたことがあると思う。
私は文章を書くことが好きで、趣味で小説を書いている。
「こういうキャラがいたら面白いな」
「こんなストーリーが読みたいな」
「こういう展開の話って最高だな」
はじめはなんてことないアイデアの粒だ。
ちょっとしたことから瞬発的に発想が広がって、なんてことない要素が自分好みのストーリーとして断片的に浮かび上がる。
しかしいざ書いてみると思うように話を展開できなくて、用意していた結末までどう歩んでいけばいいかわからなくなる。
そんなことをしながら書き進めていくと、やがて物語の終盤になって決着の付け方が見えてくる。そうなったらキーを叩く手が驚くほど止まらない。
話が次から次へと浮かんできて、必死で手を動かし文章へと落とし込む。自分のタイピングが遅すぎて絶望するくらいに。
こうなってくると夢中だ。なにせ勢いで書いているのだから。でも楽しい。続きの展開が頭に浮かんでからほぼノータイムで文章にしていくのだ。
そしてそんな興奮状態で話を書き終えると、また創作意欲がモリモリと湧いてきて別の小説のプロットを練り始める。
何かを生み出すこと、自分の手で作り上げることは、そんな風に夢中になれるから楽しいし、意味があるのだと思っている。
そして売れっ子のクリエイターというのは、そんな夢中で作った自分の作品が世の皆さまに価値を認めてもらえているのだから、喜びはひとしおだろう。
何かを最後まで作り上げるというのはどれほど難しくて、だからこそ人にやりがいや生きる目的となり得る喜びをもたらすと知っているから、私はどんなジャンルであれクリエイターという方々を尊敬しているし大好きだ。
けれど技術革新の波は、この世にある営みを片っ端から効率化していく。
わかってる。
クリエイターではない「消費者」たちは、ただ面白いものを消費したいだけで、それが誰の手であろうと構わないのだ。
新しい高品質なエンタメを「はやく」「大量」に世に届けることで生きている企業たちにとって、「効率よく」「面白い話」を短いスパンで生み出してくれる技術を持つことは市場競争で優位に立つために必要なことだろう。
別に批判するつもりはない。ただ、どうしても虚しさを感じてしまう。味気なくて、あらゆる「意欲」や「モチベーション」が効率化によって消滅してしまう世界に。
人間は欲を持っているから、クリエイターとしての楽しさを知ってしまったら「もっとその楽しさを感じていたい」と思ってしまうし、何かを作ったら今度は「人に自分の作品を認めてもらいたい」と思ってしまうし、一度でも人に認めてもらえたら「もっと多くの人に認めてもらいたい」と思うだろう。そしてその循環が人間に活力を与える。
アートでも何でも、今後AI作品の価値が高まり市場において何よりも優先されるようになれば、人間の作品は基本的に二の次になって、日の目を見る機会が今以上に減っていく。
もしかしたら効率化のその先に、新たに創造的な領域が生まれるのかもしれない。AIを操って文章を書くことにも技術や個性が必要で、新たな創造性を人に求めるのかもしれない。
そしてそういう世の中に適応していくことが人間の進化なのかもしれない。
私はまだ、今自分が使っている物差しでしか未来を測っていないから悲観的になっているだけで、未来に生きる人は別の物差しを使って生きているはずだから、もしかしたら現代に生きるクリエイターより幸せになっているのかもしれない。
けれど私は、文章の中に潜む作者の作為とか思惑を見つけることが好きだから、「キーワードだけ与えてAIに用意させた話のどこら辺が面白いのか…?」と思ってしまう。そして疑問が湧く。
人は書きたい話があるから、文をつむぐ。
その「書きたい話」というのは、明確じゃないけれど確かに自分の頭の中にあって、それは唯一無二なのだ。
AIに書かせた話は、自分の頭の中と完全に一致しないから、「これじゃない」という違和感は残るのではと思う。
たとえそのAIの話が評価されたとしても、それは自分の中にある「こういう話が書きたかったのに」という欲求を解消してくれない。それで満足なのか…?それとも、そういったことを気にしない人間がAIを利用した作家になっていくのか。
どうせなら、人間が手を動かさなくても、人間の頭の中を文章や絵に変換してくれる技術を開発してくれよ。人間から喜びを奪う技術じゃなくてさ。
なんて、不貞腐れたことを思ってしまった。