「新説 明智」
明智は首謀者なのか?歴史のifはタブー視されるが、織田との共同が何故に?終結されたのか?この主従ではない関係性の検証が、今日迄論じられてはいない。
振り返る。室町幕府が崩壊し、応仁の乱を経て戦国時代に突入する。1582年、京都の本能寺で織田信長は明智光秀に襲撃され自害したとされる。これにより、全国の大名達の政治的な緊張と対立が終わる事は無かったのである。
となれば、明智の思惑が短命政権で終結したとはいえ、天下変革し国家安泰の理念は、聡明だと評される明智の頭脳戦は完全な敗北となる。
しかしだ。明智と織田の関係性が実際は、同格に比すると鑑みれば、明智は今日の時代考証で考えられる人物像ではなく、強欲さと豪胆さの人物ではなかろうか?
明智の本音とは
①信長の後継者問題に不満足であった。
信忠ではなく、自分こそが正統性がある。
②信長家臣団の中での序列。
勝家、秀吉ではなく我こそが優位である。
③そもそも家臣だと考えてない。
室町幕府将軍との両属。又は第三勢力。
結論
「織田と明智は同格であるという」明智主義。
新説として
織田の弾正ではなく、明智主義。これが光秀の決断だった。と私は考える。
その理由として
①信長自害後の出来事として、秀吉更に徳川家康の実質的な天下統一まで時間がかかった事。
つまり、1582年は未だに戦国時代最盛期であるという事。
②信長、信長の後継者信忠の両名の殺害を企てた事。
③本能寺の変後。細川家への書状内容。主家滅亡は当然であり、正統性を強く主張している事。
明智主義は、権力は我にあり!!
自己正統性による
家柄(家系)、
軍事力(領土権)、
財力(畿内支配下)、
政治力(足利幕府/朝廷/他大名)、
知略(新天下変革)、
そして、明智主義は強欲さと豪胆さ故に「三日天下」となりもうした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?