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僕が、器用貧乏で飽きっぽくても良いのだと、思えたとき(「器用貧乏」連載①)

こんにちは!Light the Unightのじみーです。

突然ですが、皆さんは、「器用貧乏」や「飽きっぽい」という言葉にどのようなイメージを持っていますか。

今でこそ、「学際的研究」とか、「総合力」とか、そういう言葉も聞かれるようになりましたが、それでも、「器用貧乏」や「飽きっぽい」という言葉を聞けば、浮気性の半端者というイメージが浮かぶのではないでしょうか。

僕は、少し違う考えを持っています。「器用貧乏」とか、「飽きっぽい」とか。これらは、社会が作り出した呪いの言葉だと思うのです。

本当は、「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、紛れもない長所なのだと、思うのです。

少なくとも、「器用貧乏」で「飽きっぽい」僕は、「こんな自分で良いのだ」と、今は胸を張って言えます。

もし、かつての僕と同じように、「器用貧乏」「飽きっぽい」という呪いの言葉に苦しんでいる人がいたら、少しでも役に立ちたいと思い、今日から何回かに分けて、これらの概念に関する僕なりの考えを書いていきたいと思います。

僕が、器用貧乏で飽きっぽくても良いのだと、思えたとき。

今回は、少し、僕自身の話をしようと思います。

僕は、小さい頃から、何にでも興味を持つ性格でした。

ある時は昆虫にハマり、数ヶ月後には星座にハマり、今度はマジックにハマり、そうかと思えば射撃にハマり、詩を書くことにハマり、歴史にハマり……と、いつも何かしらにハマっていて、勉強したり、練習したり。でも、それが何ヶ月も続くことは滅多になくて、大抵はひと月するかしないかのうちに、興味の赴くまま、あっちへふらふら、こっちへふらふら。

たぶん、ひとつには、物語とか、映画とか、そういうものに影響されやすくて、かっこいい登場人物がいると、すぐに自分でも、その登場人物と同じようなことがやってみたいと思う性格だったからなのだと思います。

シリーズもののファンタジーなんかでも、ひと月もすれば読み終わるし、余韻も去った頃には次の本が現れるからね笑

子どもの頃だったら、同じような経験をした人は多いかもしれない。でも、僕は、何歳になっても変わらなかった。変われなかった。

読書だけじゃない。誰かが何かをやっていて、感動すると、自分でも挑戦してみたくなる。ギターを格好良く引いている友達がいれば、自分でも始めてみる、素敵な小説に出会うと、自分でも書いてみたくなる、というように。

でも、中学生の頃くらいから、これが大きなコンプレックスになっていきました。

「何かを極めたことがない」

いろんなことを勉強して、いろんなことを経験しているから、比較的、どんな話題でもついて行くことができます。でも、逆に言えば、どの知識も、どの経験も、中途半端だから、底が浅い。

全くやったことない人よりはできるけど、真面目にやっている人にはちっとも敵わない。

だから、何かを極めている人に対して、すごく、憧れを持つようになりました。自分でも、「今度こそ、これを極めよう」と挑戦するのだけど、何回やっても、何十回やっても、続かない。自分は何も極められない人間なのだと、どうしようもないやつなのだと、思うようになった。

そんな僕にとって、呪いの言葉は、「器用貧乏」と「飽きっぽい」。

大学生になった頃、なんだかよくわからない焦燥感に駆られるようになりました。

「何者か」になりたい、厚みのある人間になりたい、何かを極めている人になりたい。早く、早く。僕は、中途半端なことばかりに時間を費やして、人生を無駄にしているに違いない。

でも、どうしたらいいのかわからない。周りの大人に聞くと、「焦らなくていい」とか、「時間をかけて」とか、「一歩一歩」、「コツコツ」、「じっくり」、「いつか」。そんな答えばかり。でも、じっくり、コツコツ、一歩一歩、時間をかけて、何かに打ち込めるような性格だったら、あんな風に悩んでなんていなかった(まあ、どっちにしても、何かしらの悩みはあったんだろうな、と今は思うけど)。

そんなある時、ある友達に、悩みを打ち明けたことがありました。悩んでいる中身を、そのまま全部話したのは、その時が初めてで、乱雑にとっ散らかった話だったと思う。でも、その子は最後まで黙って聞いていてくれました。

そして一言、「飽きっぽいって言うけど、私には、君がずっと小説を読んだり書いたりするのが好きだった、って聞こえたんだけど」。

他の人に言われてたら、「そういうことじゃない」と反論してたのだと思います。でも、その子は当時ちょっと気になっていた子だったので(笑)、なんだか素直に耳に届いた。で、「ああ、そうか、他の人から見たらそうも見えるのか」なんて、思って、なぜか、ちょっとすっきりした。

いや、実際のところ、その友達が言ったことは、僕が持っていた悩みとちょっとずれていたんです。でも、彼女の言葉が、僕にひとつのきっかけをくれた。

つまり、「僕は、実は、ずっとひとつのことに夢中だったのかもしれない」と考えるきっかけをくれたんです。

そして、これが、今回、僕が一番言いたいことにも繋がっています。

「器用貧乏」も、「飽きっぽい」も、本当は、ひとつの「得意」、ひとつの「好き」でしかない、ってこと。

次回は、このことをもう少し詳しく書いていこうと思います。

じみー

次の記事はこちら⇨「器用貧乏」と「飽きっぽい」に関する一考察②

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