【作曲家13】先生になって
初任した学校
高校の教員になり初任で赴任した学校は、新設2年目でした。音楽の専門コースがある学校であったので、授業も普通の音楽の授業のほかに音楽専門と言う授業がありました。一応音音楽室が3つ、ピアノが13台、オーケストラ楽器一式と揃っていました。大きな音楽室が1つ、特別教室を改造した音楽室が3つ、ピアノの練習室が10室と整っていたのです。ただ、新設2年目と言うところで全てが真新しいものでした。私に任されたのは授業はもちろん、音楽コースの企画、運営など多岐にわたっていました。部活の顧問も任されました。
オーケストラ
任されたのはオーケストラだったのです。その時、器楽部と小学校の部活の名前がついていました。オーケストラと言われて、「え!」と思いました。「オーケストラ」とんでもなく大きなものを作っていかなければならないと感じたのです。管楽器、弦楽器、全く未経験です。確かにその当時オーケストラの曲は書いたことがありオーケストラと言うものについての知識は持っていました。それと団体を作っていくと言う事は全く別のことです。まして指揮なんてまともにやったことの習ったことなんてありません。(その時、オーケストラの指揮は特別に思えました。やって見てまさにその通りだと実感しました)
オーケストラ部を作る
よく学校の体育系部活の顧問は全く経験がなくてもつけられる場合があります。音楽の部活は音楽の先生であればどんなジャンルでも関係なくつけられます。声楽科でないから合唱部はできないとか、声楽科だから吹奏楽は出来ないとか言えません。(やりたくないとやらない先生はいますが)「オーケストラか」と思いました。作曲を専門とするならオーケストラは憧れです。(私はですが。吹奏楽を憧れる人いるのかなあ?)レコードを聴きながら割り箸で作った指揮棒を振り回した記憶があります。本当はそれが出来るなんて、どんなに幸せなことかわかりません。でも、どうしたら作って行くかゼロからの出発でした。本を読んだり、オーケストラのある学校を訪ねて見学したり、話を聞いたり、色々考えながら1つ1つ積み上げて行く事にしました。
初めての練習
管楽器の生徒は吹奏楽が出来るくらいいましたが、弦楽器の生徒は10人を満たしていませんでした。ただ、その中にバイオリンの専門の生徒がいました。その子がいたおかげで弦楽器の力が日に日に伸びて行きました。ただ、楽譜がありません。(楽器ごとパート譜で演奏します。購入するとかなり高価です)スコア(総譜)をコピーしてパートごとに切り出し、それを台紙に貼って行くことから始めました。土曜日の午後、練習が始まりまそいた。管楽器はファゴット以外揃っています。弦楽器はコントラバス以外全部で8人(位だったと思います)。曲はカルメンから「アロガナイズ」。どんな音が出て来たか記憶にありません。ただ、途中バイオリンのかなりの高音にあがる部分が専門の生徒のソロになったのを覚えています。弦楽器の人数が少ないので弦付きブラスと生徒は命名していました。とんでも無くバランスの悪い編成でした。編成が整うまで数年かかりましたが、どんなにアンバランスでもアレンジしたりして、校外の演奏会にどんどん出て行きました。兎に角、オケを作って行く気持ちで一杯でした。
吹奏楽
その頃、オーケストラを希望する生徒は少数派でした。吹奏楽の希望者の方が多いので。当然、その活動、コンクールに出ることを希望する生徒が多くいるのでそのための練習は地なくてはなりませんでした。部活の中の部活になり、吹奏楽で独立を考えるのも当然でした。そこで、揉めるのです。生徒対生徒、生徒対顧問。長い間揉めました。(それに関しては別の話)どんなにもめても、吹奏楽独自の活動は極力、コンクールだけにしました。(そう簡単にはなかないいかなあかったのですが)無意もないのは生徒にとって、中学校から吹奏楽が当たり前で、オーケストラは身近ではなかったのです。
オーケストラになる
どうして、頑張って吹奏楽での活動を抑えて、生徒と喧嘩までしてオケを作ろうとしたのか、何故でしょうか。正直、前に書いた憧れでそうなったのではありません。新しいことをする使命感だったのかと思ったりします。何年も経験した古狸になってから自分だったら、そこまでしなくてもと思います。一時、生徒と喧嘩して顧問を降りてくれとまでいわれました。それを跳ね除けて踏ん張ったのですが、今だったら、「ありがとう、喜んで顧問を降ります。」って言ってたかも。それから兎に角大変でいた。赴任して2年目、息の合い一緒にやれる顧問の先生が赴任して来て、5年目、管楽器の生徒から来年から吹奏楽のコンクールには出場しませんと言って来ました。それ以降、新入生の楽器配分も弦楽器中心になり、本格的にオケの活動が始まりました。
管弦楽部
それ以降、オーケストラの部活がある高校として、名前が知られるようになり、部員が100人を超えるまで増えました。定期演奏会は毎年、習志野文化会館で行うようになりしっかりとした基盤の上に演奏できる団体として成長して行きました。オーケストラのコンクールはありましたが、1回だけ参加しました。本戦が録音審査でした。
川手誠(作曲家)