すーすーはー。
たまに息の仕方がわからなくなるときがあるんです。
呼吸というよりかはもっと抽象的な息の仕方。
水の中で溺れているみたいな。
突然、ほんとに突然。
息の仕方を忘れて、どうすればいいのか、何が起きたのかわからなくなるときがあるんです。
それは、すごく悪い意味のときもあるし、すごくいい意味のときもあるんです。
とても心打たれる作品に出会ったり、尊敬できる人に出会ったり、そんなとき、世界が広がった嬉しさと求めていたものを見つけた嬉しさと、さらには、その感動を伝えれないもどかしさとで息ができなくなったり。
何気ない周りの態度や言動で、突然、恐怖心にかられて、手を取るように見えていたものが全く見知らぬものに変わったように感じて、どうすればいいのか、今まですべてが間違えだったのか、そういう息のできなさだったり。
ほんとに、いろんなタイミングで起きてしまいます。
逃げて逃げて、すべてを棄てて、自分の身すらも投げ出したくなるときもあったり。
それでも、何事もなかったかのように笑ったり、はしゃいだり。
たぶん、それは、周りを守るためでもあるけれど、自分が自分から逃げ出してしまえるほど強くないからなんだと思うんです。
あと、そうできる状況に運べないほど不器用なんです。
知り合いに昔、
いーじま、真面目と誠実は違うんだ。
なんてことを酔っ払いながら言われました。
うるせぇなぁって、大きなお世話だよって反論したかったけれど、できませんでした。
それは、年上だったから?
いや、違う。
たぶん、図星だから。
でも、それでも、たぶん、真面目なのがわたしだし。
真面目でなければわたしではなくなるんだと、思うんです。
そして、そんな自分をいちばん大事にしなくてはいけないのもきっと、わたしなんだと思います。
息の仕方がわからなくなるのもわたしだし。
真面目過ぎて、勝手にいっぱいいっぱいになりすぎてしまうのもわたし。
これは、きっと変えられない。
人間は基本的な性格はたやすくは変えられないんですから。たぶん、、
でも、こうして、そんな風に言葉として、noteに人の目に触れるものとして、きちんと提示ができているあたり、自分の存在を容認できつつあるという進化で、変わらないけれど、成長はしているという目に見える確かなものなんだと思います。
もしかしたら、いま、息ができない人がいるかもしれない。
たぶん、自分に向かってでもあるけれど、
それでもいいのだ。
と、そう、認めてくれる人、ほんとは他人がいいけれどそれは難しいから
自分が自分で認めてあげる。
それは、生きるために、生き抜くために必要な術なのだとおもいます。
そう、それでもいいのだ。
この文章もぐちゃぐちゃだけど、
それでもいいのだ。