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知らない人にSmile!としつこく言ってくるようなイギリスが好き


 イギリスには嫌いなところもあれば好きなところもある。どこでもそうだろう。そんな中で、イギリスに滞在してじわじわ気がついてきた好きなところは、無関係な他人に優しいところ、親切なところだ。
 もちろんそれは私が経験した範囲での体感でしかないから、それでイギリスのすべてを語りきれるわけではないし、イギリスを知るほかの人が同意するかどうかはわからない。人種差別だってあるし、嘲笑や暴力もある。でも、今のところ私の身の上に起こったことなどをかんがみると、イギリス人に対する私の印象は、おおむねまあそんな感じなのだ。

 日本にいた時からそうなのだが、何かを思いつめるように考え込んでしまってドツボにはまってしまったような時、私は歩くことにしている。音楽を聴いたりもせずひたすら黙々と歩く。
 6月27日の朝のことだった。考えなくてはいけないこと決めなければいけないこと先行き心配なこと、ネガティブな気もちがふくらんできたので歩きに出た。頭をいっぱいにしてピカデリー駅の近くを歩いていた。
 Excuse me!と声をかけられた。私はそれどころではない。知らん顔をして通り過ぎようとした。すれ違いざまにチラッと視界に入ったのは、空の紙コップをもったおそらくは現在ホームレス状態にある人のようだった。何度も何度も声が追いかけてくる。なぜだろう、と思ってふり返った。そこで彼が発したのがSmile!だった。あっけにとられているとまた何度か繰り返し、一瞬の間があって私は誘われるままにどうやら笑ってみていたらしい。彼は「そうだそうだその方がいい」と満面の笑みで言った。

 やや気が晴れて部屋に戻ってから、よっぽど思いつめた表情をしていたのだろうなとあらためて思った。見知らぬ他者の暗澹たる気もちにひとことで割り込んで光をこじ入れてきた彼の所業をなんども反芻した。そして、なぜあの時ひとことThank youと彼に返さなかったのだろう、とすさまじい後悔がこみあげてきた。

彼はここに立っていた

 まだあそこに立っているかもしれないと思って戻ってみた。彼はもういなかった。起こったことを忘れないように、彼が立っていた場所だけでも残そうと写真を撮った。
 彼は私のことなど一瞬後には忘れただろうし、よもや自分が私に及ぼした波紋の大きさに気づくこともなかっただろう。だけど、あのまま通り過ぎないで彼に笑顔をなんとか見せることができたようで、それだけはよかったとつくづく思う。

 どのパンを買おうか迷っていると「このパンがおいしいよ。マイクロウェーブであっためるとなおうまくなる」とアドバイスしてくるおじさんなど珍しくもなく、バスの乗り降りの時のあいさつ、たまたま隣に座った人との雑談、ちょっとしたことで交わされるSorryだのThank you、ライターの貸し借り、ジェスチャーや視線だけの無言で示される優しさもある。
 そういったイギリスでの経験をひとことで言うなら、知らない人との間の垣根が低い、ということにつきると思う。
 だからこそなのか、別れ際もあっさりしてる。じゃあねと言ったら、すぐにもうあっちの方をふり返っている。だからこそ、ひとつひとつの出会いがより重要に思えてくる。だからこそ、あの日Thank youとひとこと言えなかったことが悔やまれる。だからこそ、なにかとThank youと言うようになった。

 先に書いたようなSmile!話は、さすがにイギリスと言ったってまあそんなにあることではないのだろういい人に出会えてよかったな、と思っていた。

 違っていた。

 私はよくピカデリー駅に行く。なにをするでもなくベンチに座り、行き交う人たちをぼーっと見ているのがとても好きだ。
 いつものようなそんな10月14日か15日かの夜だったと思う。ふたり連れの二十歳前後くらいの女の子の横にたまたま座った。酔っぱらいが近づいてきた。酔っぱらいはその女の子たちに近づいていって、最初何を言っているのかわからなかったのだけど、どうやらSmile!と言っていた。もちろん、6月に私にSmileといってくれた人ではない。最終的に「そうだ。その方がよっぽどいい。」と言って、すたすたと歩いていった。
 その直後、言われた女の子の顔をこっそりのぞき見ると、彼女はまだにっこりしていた。
 その隣にいた友人の女の子は、何事もなくスマホの画面をみていた。酔っぱらいが近づいてきたことにはもちろん気づいているのだけど、友人と彼の間でいま起こったことなど気にもとめていなかった。

 知らない人に話しかけたり話しかけられたりする、それもSmile!とか余計なお世話なことを言ったり言われたりする、そしてそれを大したこととしてでもなく自然におこなったり受けとめたりする、いろいろな意味で私にとっては特異な「日常性」にまたふれた気がした。

 そろそろ帰ろうと駅構内を歩きだすと、さっきの酔っぱらいがこんどはひとりベンチに座る若者と話し込んでいた。話しかけられたわりとポップな感じの彼は、嫌な顔などせず酔っぱらいの目を見て話を聞いていた。
 よくみかけるイギリスの風景にすぎない。

カバー写真:スト中のピカデリー駅(2022年6月25日)

 


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