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「ガッツポーズてみっともないよね  ~モーちゃんと高校野球~」  昔話06

今年の高校野球、東北初優勝で終了。大変めでたいが、宮城県以外の東北の皆さんは喜んでいるのだろうか。
私は、高校野球でのガッツポーズが大嫌い。本当に見苦しくて正視できない。
喜ぶのは勝負が決した時だけにしてほしものだ。身内なら優勝が決まった場面しか許さないだろうな。
プロ野球ならファンを楽しませることが重要なので、野球という勝負の中で、様々な行動によって観衆を煽り、楽しませることも重要。だからガッツポーズもプレーの一部であるので適切になされるべきことだと思う。
高校野球でヒットを打つたびにベンチへ向けてこぶしを振り上げる。ベンチの選手も共に戦っているわけで、選手同士気持ちを鼓舞し、流れを作っていくことは大事なことではある。でも、得点シーンでもなく、得点であっても勝敗に関わるところから離れた部分でのガッツポーズには首をかしげる。平成初期の頃は、ガッツポーズのこぶしがスタンドに向いていることが多かった。「おいおいどこ見て野球やってんだよ」と思ったが、スタンドには控えの選手もいるわけで、必ずしも女生徒に向けているわけじゃないとは思う。さすがにスタンドへのガッツポーズは最近はなくなったが。
ガッツポーズを目にするたびに、「必要か?それ?」「もう勝負は決まったの?本当?」と思い、なんかツキが逃げそうな気がする。そして、「ヒット打ったことないの?」と、野球選手としての格が落ちる印象を与える。そう思うのはおかしいのだろうか。私ならめったに打たないホームランでも、いつものことのように表情を変えず塁を回るけどな。ましてやヒットなんて、打点がついても、同点打でも逆転打でもその程度のことで恥ずかしくてガツポーズなんかできないし、勝負が決まるまで喜んでいる場合じゃない。チャンスほど引き締め、「もっと、もっともっと」って感じになるだろう。
私は、モーちゃんころからお調子者で、盛り上がることが大好きで、本来は率先してガッツポーズをする性質だが。中高大と野球部に所属してやってきた私としては、何歳になっても野球選手としてのプライドは忘れたくないね。
昔は、ガッツポーズ何てほとんどなかった。大っぴらにやりだしたのがミュンヘン五輪で金メダルに輝いた男子バレー。このときも批判を受けていたが、流れの競技でもあり有効性を主張する人もいた。今では卓球なんかを代表にかなり普通にガッツポーズが行われている。私にとっては大嫌いだけど理解はできる。
 
モーちゃんにとっての最初の高校野球は1969年、2年生の夏。この年の決勝戦の日は、友達10人くらいで野球をしていた。近くのトラックから決勝戦のラジオ中継が聞こえていた。1969年夏の決勝戦である。松山商業対三沢高校の延長18回0対0の試合。ラジオからなんとなく試合が大変なことになっていることは感じ取れた。家に帰ると大変な試合で、見ていればよかったと後悔した。
でも、まだこのときは1試合丸ごと野球を見ることが出来ていなかった。
ここで気合を入れて翌年45年春の選抜の決勝戦は全部見ることにした。何とか全部見た。優勝した箕島高校がすごく喜んでいたことが印象的だった。冒頭に書いたガッツポーズ何て当時の高校生(プロもだが)はほとんどなかった。優勝決定の延長サヨナラだからそりゃ喜ぶだろうよ。このときは太田幸司に次ぐアイドルとして箕島高校島本講平が活躍していた。
このころ高校生の兄ちゃんが真摯に競技に向かって奮闘していた。中身はどうかわからないが。モーちゃんにとって甲子園の高校生は本当にかっこうよかった。
北海道では北海高校が強かった。甲子園大会は、ばあちゃんの家で北海高校を応援した。相手は兵庫の滝川高校。モーちゃんは「甲子園のくせにどうして滝川高校(北海道の滝川市の高校)とやるんだ?」と言うと「たきかわじゃないよ」と教えてくれた。負けてしまったが、これがモーちゃんの地元高校応援の最初。
4年生になるときの選抜はお向かいのサタケ兄弟の家で準々決勝から決勝戦まで高校野球を見た。
モーちゃんは白い帽子のユニフォームが嫌い。当時のテレビは白黒なので帽子は白か黒。いつも黒帽子を応援していた。結局その大会は白帽子の日大三高が優勝した。
5月の春の全道大会、モーちゃんは父さんに初めて中島球場に連れて行ってもらった。木製バットからの打球音、選手の動き、観衆の声などどれもとっても魅力的だった。中でも北海高校の強さに魅かれた。憧れの高校になった。ひょっとしたら憧れ度は巨人よりも上だったかもしれない。北海は夏の南北海道大会も制した。
夏休みに入ってすぐ学校のプールから帰ると父さんが北北海道大会決勝戦のスコアをつけていた。優勝が留萌高校。歴史に残る大勝利である。そのときスコアのつけ方を教えてもらった。
父さんは、甲子園大会の前日に「明日の留萌高校の試合をスコアにつけるように」と、新しいスコアブックを買ってきた。留萌高校が甲子園に出たのは後にも先にもこの時だけ。留萌市は、今では人口も少なくなったが、かつては漁業のほかにも石炭の積出港などかなり栄えていた。その頃は最盛期からやや衰えた時期だった。
留萌高校の試合は、開会式直後の第1試合、相手は県立岐阜商業。結果は0対1で敗退。試合は難しい局面もなく、モーちゃんは無事務めを果たす。そのあと北海は福井県の高校に負けてしまった。直後に公園に遊びに行くと、そこに集まっていたおじさんたちが、「留萌のピッチャーが北海にいたら強かったのに」と残念がっていた。テレビでピッチャーの良し悪しを見極めるにはモーちゃんは幼すぎた。
高校野球は大好きで、開幕の何日も前からワクワクしていた。開始から終了まで見られる試合は必ずスコアをつけるようになった。ジャンボ仲根も、江川卓もつけていた。横浜高校の永川英植、定岡正二や原辰徳の頃になると中学生になっていた。その頃の私の最大のヒーローは鉾田一高校の戸田秀明投手だった。
私の高校時代は、1年生の時は東邦高校1年生バンビ坂本投手が活躍し、2年生の時は高知商業2年生エース森が準優勝。ちなみにこのとき逆転のPLと言われた。3年生の時は箕島高校春夏連覇。箕島星稜の延長18回の年。そのあと愛甲猛や荒木大輔、金村義明、工藤公康から、池田高校やまびこ打線の畠山水野に桑田清原KKコンビになる。さがすがに自分より年下になると夢中になってスコアをつるようなことはなくなった。
それ以降高校野球でスコアをつけたのは、優勝旗が初めて津軽海峡を越えた駒苫初優勝とあこがれの北海高校の準優勝の決勝戦。
どちらも試合途中での激しいガッツポーズがないのがよかった。ただ地元びいきでガッツポーズも割り引いて見えたかもしれないが。

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