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大海嘯Ⅱ【日記】

 ナンキョクオキアミは群れをなす。その規模たるや大変なもので、何兆というオキアミが海面をオレンジピンクに染め上げる姿は時に宇宙からも確認できるほどだという。
 そんなオキアミをクジラは食べる。捕鯨船はクジラを一九一五年から一九七〇年までにニ〇〇万頭減らした。オキアミは増えたかと思えば減った。なんでも、オキアミの食べる植物プランクトンはクジラの糞を栄養に増えていたということらしい。

 さて、貴方の目の前に一匹のオキアミがいる。前肢をしゃかしゃか動かして、氷点近い南極の海を漂っている。彼がまもなくクジラに食われることと、彼の幸福とは何の関係があるのだろう?

 私はいつも首のないリヴァイアサンを思い浮かべる。王の不在は私たちにある種の幻を見せる。創発としての社会のうねりに何らかの必然を感じたなら貴方はきっと憑かれている。

 クリス・ラングトンの人工アリは昨日確かに人工アリアリ塚を築いたかもしれない。しかし、だからといってそれは途方もない話で、社会について偶さか私たちとの連動があるのも、全体と部分とがそれぞれ単純な原理で表し得るという括り罠と似通ったようなものだ。
 だから、くれぐれも断っておく。この文章は評論でなく、メタ分析でなく、正義でなく、暗示でなく、完全に私的な、印象であるとか、不平であるとか、悪戯であるとか、呻き声であるとか、それらに類するものであることをくれぐれも断っておく。アシュリー・ウォード氏の『動物のひみつ』を読み始めた。あと六百ページある。

「どうやらぼくは床の上に寝ているらしいぞ! 長持はどこへ行ったんだろう?」

ダニイル・ハルムス(2023)

 社会の成功とはどういったものだろう。集団の成功は数が増えることだろうか。それならホモ・サピエンスもたいがい大したものだが、ナンキョクオキアミには水をあけられ、細菌やウィルスなどと比べれば比べるべくもない。
 とはいえ人知れず繁栄し絶滅した菌類のことを思えば「成功した」とは生き残ったことだ。そして「成功している」とはこの先も何だかんだ生き残りそうなことだろう。ものすごく数が多いとか、環境の変化への適応が強いとか、そういうものだ。

 サバクトビバッタの孤独な後肢を一分つき五秒、絵筆で四時間撫で続ければ群れのバッタへの変身が始まる。群れのバッタは群れのバッタを生み、群れのバッタは群れに群れる。
 群れのバッタはバッタを食べる。だからバッタは走り続ける。生まれて死ぬまで、目の前にはご馳走が、背後には捕食者が並走している。孤独なバッタに戻るにはバッタ一回分の生ではほとんど足りない。

 オキアミはクジラに食われる瞬間、幸福でなければならない。ナンキョクオキアミは食われて増えた。バッタは密度で変身する。移動形態への移行の第一歩はセロトニンの分泌量の増加なのだとか。

ご覧よ 
誰も彼も皆 同じリズムで踊ってる
はてなを感じたら疲れるから 気づかないでよ

吉田一郎不可触世界(2020)

 では、私たちは? 私たちは言葉を、虚構を、意識を、因果推論を、乃ち悩むだけの力を獲得して生き残ったが、その逸脱も進化の柵を全く置き去りにするほどではなかった。私たちには川としての無意識と、櫂としての意識が併存することとなった。自由意志は可能なのだろうか?

 『利己的な遺伝子』を読んでいない。自らのと可及的近似した遺伝子を残すことに例えば私たちが半分支配されているとして、私たちの悩みとはなんだろう。ここで問題は二手に分かれる。一つは由緒正しく生き残ることで、これはいい。もう一つは天が崩墜する場合だ。
 生き残ったもの勝ちの遡及理論は成功と失敗の判定のアルゴリズムを玉虫色にかき混ぜ、アウトサイダーたちの絶望を早とちりへと貶めている。かといって育ちと育てがある。社会的動物たる我々は社会適応なしに長らえない。神々の声が聞こえる人間は社会からこそ淘汰されたかもしれない。何処に生まれようと山に登らねばならぬ。そこが山であるうちは。

 社会はゲノムを迂回する。その変更が創発によってなされるものなら社会的望ましさとは『桃太郎電鉄』だ。しかし、私たちの参照する模範解答は内なる肖像に過ぎない。このことがまた厄介だ。私たちの高山病以上に正確な高度計はないのだから。
 社会は私たちであって、社会は私たちではない。魔女たちは神々の一柱を呪って追放した。クック・ロビンを誰が殺したのか? それはジェレミー・ベンサム。メリトクラシーは確かに行き渡ったが、謎のマグマが隙あらば何処かの海嶺から噴き出ようと落ち着かない。

 古き神々を防音したのは複雑さだったかもしれない。私たちは悩む力を得て生き残ったが、これは私たちが悩み続ける他ないということを意味しない。ニセフトタマムシがいるからだ。こうして話は半分振り出しに戻る。

そのとき金閣が現れたのである。

三島由紀夫(1960)

 認知バイアスは確かに正すべきものなのかもしれない。しかし、リトロダクションのことを思えばそのことは二次的な倫理であって、私たちに偏光が見えないのと同じようなものだ。

 寄生虫に侵されたミツバチはコロニーに戻らない。貴方もオーツ大尉を思っただろうか。巣が攻撃を受けるとミツバチは敵を刺す。刺さった針は臓器の一部と共に千切れて敵の体内に残り、毒を注入し続ける。
 巣別れの際には若い女王を現行の巣に留め、老いた女王が出ていく。新たな巣の候補地を見つけた偵察バチは他の候補地を推す偵察バチのダンスを邪魔することがある。移住先が決まると偵察バチは群れの中を飛び回り、皆が飛翔筋を温めはじめる。彼の持つメガホンが貴方にも見えただろうか。

 グンタイアリのビバークはスパルタのようだ。行為の隙間を意識は埋め、因果関係の物語を紡ぐ。オキアミが幸福であるはずがない。人間にしても、私たちは謂わば人間を擬人化しているのであって、共感がたとえ在るにせよ、それは予定調和的に傍観されるものでしかあり得ない。
 つまり、悪が可能であるのと同じように幸福も半分は可能だということなのだろう。

(中略)生がおのずから知っていることを今更解明されたって、俺は何一つ享けたことにはならぬ。

彩図社文芸部(2019)

 あるいは私たちはシロアリの建築のようだろうか。その原理から私たちには認識こそできないものの、何か決まった目的のために私たちは日々働いているのだろうか。それはそれで素敵なことだ。それは倫理との直結であって、私たちは単に風のようになればいい。そうすればこの度の私の向こう見ずもいつの日か免責される。

 ニクソン・ショックから五十年とちょっと。人間を記号化したことは理に適っている。奪ってはいけない。壊れてしまうから。やめてもいけない。終わらないから。テクノロジーは意識の辿り着くべき未来なのだろうか。生き残ったもの勝ちの遡及理論には穴がある。死人に口はないのだ。

 腕を組み、うんうん唸りながらリビングをウロウロしていると猫が寄ってくる。猫にも自由意志はない。しかし、この美しい生き物がどうか幸福のようなもので満たされていてほしいと思う。
 ジャスティン・グレッグは今年も可哀想な雄蜂にハチミツをやっただろうか。この種の独り善がりなお節介もまた、接続の一つの形態なのかもしれない。今日は考えるのをもう止そう。耳の付け根を掻いてやらねば。


【主な種資料】

  • アシュリー・ウォード(2024)『ウォード博士の驚異の「動物行動学入門」 動物のひみつ:争い・裏切り・協力・繁栄の謎を追う』(夏目大 訳)第1章-第2章 ダイヤモンド社

  • トール・ノーレットランダーシュ(2002)『ユーザーイリュージョン:意識という幻想』(柴田裕之 訳)紀伊國屋書店 

  • ダニイル・ハルムス(2023)『ハルムスの世界』(増本浩子&ヴァレリー・グレチュコ 訳)白水社

  • 吉田一郎不可触世界(2020)『えぴせし』ペタステレオ

  • ジュリアン・ジェインズ(2005)『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之 訳)紀伊國屋書店

  • ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(上):文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之 訳)河出書房新社 

  • ジャスティン・グレッグ(2023)『もしニーチェがイッカクだったなら?:動物の知能から考えた人間の愚かさ』(的場知之 訳)柏書房

  • コナミデジタルエンタテインメント『桃太郎電鉄~昭和 平成 令和も定番!~』コナミデジタルエンタテインメント

  • マイケル・サンデル(2021)『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(鬼澤忍 訳)早川書房

  • こはやし【古生物ちゃんねる】(2024)『ゆっくり解説:裏目に出た進化』YouTube.com https://www.youtube.com/watch?v=tAwT-jzseRo(参照日2024年7月1日)

  • 三島由紀夫(1960)『金閣寺』新潮社

  • 彩図社文芸部(2019)『文豪たちの悪口本』中原中也の章 彩図社

  • 橘玲(2021)『無理ゲー社会』小学館


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