ガルリロ

 有り体に申しあげれば私は裕福な家庭の育ちで、そのためだろう、私は自転車に乗れない子供であった。

 ペダルを踏み、漕ぎ出す。幾許もなくよろける。なかなか友人たちのようにはスイスイ行かれないものだ。漕ぎ出す。よろける。また漕ぎ出す。ああ、これは無理かもしれん、と思いついたとき、私はある種の安らぎと喜びを感じた。
 よろけて止まる。それは、母の実家のそばの小さな紡績工場の駐車場のアスファルトの上にもうこれ以上ガリガリと不快な補助輪の音を撒き散らさなくてもいい、といった類のものではなく(もちろんそれもあった。あれは不快だった。)、自転車に乗ることを放棄できたという喜びだった。

 それは今となっても変わらない。私は他人に料理を振舞うのが嫌いだ。
 やれと言われたなら別段満更でもない。出来栄えについての当たり障りない世辞と穏当な労いの言葉の一つでも頂ければ十分である。しかし、私より上手くやれる人間がキッチンにいる状況で敢えて私がやりたくない。
 例えば彼がシンクの水垢を落とすのに忙しいとか、胃腸風邪を引いているとかいう事情があれば別に私がやろう。ただ、彼がやってくれるなら私はやりたくない。自分の分だけ作りたい。

 人間の仕事がAIに奪われると騒がれてもうだいぶになろうか。大いに結構だ。取りっぱぐれる賃金を補填などしていただければ尚のこと申し分ない。
 裁判所事務員の採用試験に落第したことにしてもそうだ。あのとき私にやれることはやるだけやったと私は今だに信じているので、判定は正当なもので、それだけ大の威光を持つと思っている。

 やってはみたができなかったのでやってもできないという絶望は私には安寧に他ならない。蓋し挫折も不平もないではなかった。しかし、サンクコストのコンコルドだって放棄の汀の喜びと、その後訪れる静寂の前には形無しだ。

 子供の頃で思い出すのは私が誕生日、新発売のゲームソフトを買ってもらうにあたって攻略本も一緒にプレゼントしてもらっていたことだ。
 アクションだけではない。シミュレーションゲームでもそうだった。先の見え透いた仕掛けなどそれのいったい何が楽しいのかとよく言われた。誠に尤もだ。しかし、仕掛けに引っ掛かることは私にとって煩わしさこそあれ、およそ面白みというには何ら関わらなかったらしい。

 悪魔よ来たれ。やってみる前からできないことがわかるのは堕落だろうか。自分で考えろ、悩め、苦労しろ、というのは私にとって十分な呪いだ。私の人生のゲームの攻略を誰かがやってくれているというのなら、誠にありがとう。彼の目的が何であれ、その知見は私をより安らかにするはずだ。

 果たしてそうだろうか。
 物の本を読んでいると、私がそれまで大まじめに悩んでいたものの前提をたいへんカジュアルにひっくり返されることがよくある。ついここ最近もトゥーコッツィの貯食についての一節でやられたばかりだ。私たちが操作していると思っていたもののうち、その実どこまでが規範に根差したものなのだろうか? 
 こういうとき、私はたいてい悪い気がしない。見てきたものや聞いたこと、今まで覚えた全部、でたらめだったら面白い。そんな気持ちもあのとき少しだけならわかったでしょう。台無しになった悩みは立ち消えになって放棄されるが、それで特別不当な感じはしない。ちゃぶ台の裏には新たな悩みが張り付いているが、私にはむしろ喜ばしい。

 芸術にしてもそうだ。私の成したかったことはパウル・クレーが、中村航が、レス・クレイプールが、長谷川白紙がまるさらそれ以上にやってくれる。折に触れてそれらを認識できたとき、やはり悪い気はしなかった。確かにクラビノーバは捨ててしまったが、私の頭の中には指盤より先に鍵盤があり、ギターは今でも弾いている。

 おそらくそこらが汽水域なのだ。そもそも私は自転車になど乗りたくはなかった? 私は裕福の家庭の育ちで、そのためだろう、何もしないでいることはその実それほど私を不安にさせなかったらしい。放棄することはベッドに潜り込むことだ。せねばならぬことに費やした無駄な努力も、無駄になったものばかりではないとフロイトならそう言ってくれるだろうか。

 あのとき大人たちの言ったことが今ならわかる。というか、ひょっとして私はテレビゲームを映画と勘違いしていたのでは? 鑑賞の途中で画面が固まって進まないのはもどかしい。放棄することはデフラグやトリミングだ。攻略本は増設メモリであり、回線業者だったのでは。そして、トレーラーであり、字幕だったのでは。

 もう一つ思い出したことは、私は持っていないゲームの攻略本もよく読んでいた。何故もなにも、楽しかったからだが、やはり大人たちはあのとき間違っていた。攻略本と銘打たれているのを良いことに、攻略本をゲームを攻略するための本だと先決したのだ。
 一抹の疑念が襖の間を過ぎって通る。私が好き好んで読んできた物の本の著者たち。もしや彼らこそ、他ならぬ悪魔の眷族だったということはあるまいなという……。

【主な関連資料】

●衛藤ヒロユキ(1992-2003)『魔法陣グルグル』第13巻 ガンガンコミックス
●ジャスティン・グレッグ(2023)『もしニーチェがイッカクだったなら?:動物の知能から考えた人間の愚かさ』(的場知之 訳) 柏書房
●THE BLUE HEARTS(1990)『情熱の薔薇』イーストウェスト・ジャパン
●KCE大阪(1995)『がんばれゴエモン きらきら道中:僕がダンサーになった理由』コナミ


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