書店にて【随想】
今でも私は時々クラッと来ることがある。
砂糖菓子を煎じ詰めたように整然とした書棚の配置パターンが平衡感覚を鈍麻させてしまったのだろうか? それも少なくとも。私に住まう吝嗇家が買掛帳簿の知識を引いて、今日の懐事情と本とを照合処理するうちに熱中症を起こしたのだろうか? それも少なからず。
書棚に犇く背表紙はどれも旨そうな匂いを隠そうともしない。私は圧倒されて、ほとんど捨て鉢になりかけていた。本がオブジェになる。無理だ。これは。とても網羅できない。
フッサールもデカルトも、ヒルベルトもデモクリトスも、あのときこんな気持ちだったのだろうか。どれも読むべきだという倫理と、どれもは読むべくもないという計算と、ならどれも読むべきでないという短絡が頭の中で取っ組み合いをしている。葛藤を扱えるようになることが大人になることだとするなら、恐るべきは子供たちだ。
とはいえ、私は平積みにされた一冊を気に入って金を払い、併設された喫茶店で温かいコーヒーを頼んだ。
本に限らず、そうだ。レジ係とバリスタの二つの人生を同時に体験することはできない。常識とは祈りのようだ。何をどれだけ備えれば誰をどれほど満足させるか浮ついているくせ、供えておかずにはいられない。
吹き抜けの書店には二階がある。やはり階層が異なるのだ。花屋の店先が呼んでいる。使命というものがあるとするならば、それは、その場を全うするという仕方でしか誠実たり得ないのでは。
買った本にはスピンがなかった。他人に淹れてもらったコーヒーを啜る。吹き抜けの木製の柵越しに子供達の走り回るのが見える。
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