飛浩隆『鹽津城』感想 煌めくものらを目で追う、誰かの眼差しを受ける、(ネタバレ分の追記あり)
放っておくとすべてがあっという間に流れていってしまい、行方不明となりがちなSNS、そこへポストした一連の感想へ、若干(ほんとに若干)加筆修正したもののまとめ。なお「流下の日」については、アイデアの根幹に関わるネタバレがありますのでご注意を。
飛浩隆8年ぶりの作品集『鹽津城』収録の各作品を読み、意識されたのは、往々にして自惚れやすい普遍的な人としての自己、誰しも決して免れえない変化の途上にある老いる我が身、そして外へのまなざしだった。以下、各作品についての感想(というかほぼ連想)です。
未の木/ジュヴナイル/緋愁
それぞれ二読。欺く悪霊の囁きを目から聴くようなクロスモーダル。剥がれかけの瘡蓋を見つけたことで、その創を作ったきっかけに覚えがないと気付いたことが最近あった。うっかり記憶の空ろを覗くと、自惚れ顔が底にゆらめく。潜在の揺籃、可能が浮き沈み、攪拌され、迷子の誰かが思い出されてしまう。
流下の日(ネタバレあり)
二読。練り込まれたアイデアとストーリーの一体感、SF作家の趣きに浸る。虚と実を操り綯い交ぜに描き出される光景も、この現実、日常にありえて地続きと思われた。ただ外枠って、崩されるとまた外枠が出てくるものよなあ(厭なことを考えてる)。
関係や関連が世界に充ち充ちて、ぎゅう詰め状態にあるなか、密かに空白地帯が設けられるのだが、このキリトル仕方は同著者の『自生の夢』収録「はるかな響き」のそれを想起させた。政治、思想、意志、思惑、血縁等々、個人を支配する脈絡を切断する力としての忘却が思い出される、という仕掛け。これがすごい。
鎭子
二読。記憶や空想の場面が様々に繋がれる、転換の技巧に目が留まる。例えば楽譜に記された音楽記号にそって視線を飛ばし、音楽の骨格を読むような心地。つぶさにものを捉えようと凝視する官能の、昂揚し、フレーム数の膨れるが如き場面一連などが白眉。様相変化なる題材、環境も身体も否応なく関係し変化し流動する、その上に築く調和も道半ば。
具体、運動、感覚、時間経過など、連続や持続、場面それぞれのあいだにつながりを見出していくのがたのしい。一貫してある、と感じられるのは白、それも明度の高い白。
鹽津城
二読。角度を変えると別の絵が出現するホログラム、両眼視野闘争的な現実性の浮き沈み、こんなことを連想した。空前の鹵害(ろがい)に見舞われた人々についての、周縁的事情に光があたり煌めいて、壮大な見世物的展開こそ僅かなれど、其処此処で作家らしさ、御しきれぬ野蛮がはみだす。
奇禍災厄の荒波を渡る言伝、光の道行き。ぼくは感想を書きながら、ずいぶん唐突に、飯盛元章『暗黒の形而上学』に導かれる、断絶の彼方=暗黒を空想している。意外な事象とも手を取りあい、スイングバイにより推進力を得、遥か遠方、思考の深宇宙へと飛翔していく。SFと哲学は仲が良い。
三読。ジャック・ハルバースタム『失敗のクィア・アート』第6章で論じられる群れ性、そのなかの『ファインディング・ニモ』評にある「大洋としての意識」「水上の光の動き」(後者はディレイニーの本タイトル)から、改めて飛浩隆『鹽津城』短編群の読解(誤読)可能性を見つめ直す。多彩な輝きの蝟集し躍動する様を外から眺め、群れの私が意識される。
煌めくものらを目で追う、そこにある動作の実在や幻想が意識され、ふと我に返ると、私という存在の外殻に光が当たった。誰かの眼差しを受ける、誰かにとってのモブである私の他者性がここにある。最近読んでる本(12月26日時点)とブレンドしながら、こんな感じのことを、ふんにゃり考えている。