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星街すいせい「TEMPLATE」から「ビーナスバグ」へ。MVに満ち滴る青――星街すいせい不可知論を語りだしてみる
ぼくは音楽に乗せられる詩がよく聞き取れないので、割とスルーしがちというか、一聴して面白そうと思いながらも精読してなかったのだけど、他の人の解釈、アルバム解説などを読み、なんだかやる気になり、当初の印象「星街すいせいは誰か?」を掘り下げるため、改めて「TEMPLATE」MVを観てみてみた。そしたら「誰か」どころではない、なにかとんでもない拡がりがみえてきたので、いてもたってもいられず、いまこれを書いている。
以下は考察とも批評とも言い難く、強いて言うならぼくの世界認識に寄せまくった(哲学書や科学書や思弁・幻想小説など、やや奇妙な読書遍歴から生じている)超個人的な思い付き、ほとんど空説と言うべき類いのシロモノかもしれない。しかし、ぼくは「僕にとって「正解」なんてどうでもいい」だなんて思わないので、ここでは可能な限り伝わるような論理化・言語化を目指す。
己の非力を自覚しながら、通じなさを超えていく予定ではあるけれども、何せ不可知論ベースなので、構造的に理解や共感が逃げいていくという難点がある。返す返す、これを記すぼくの力不足が否めないと思われるため、ゆえに読まれた方のなかに、なんらかの思索の契機として、なんらかの「感じ」だけでも残してもらえたなら、さいわい。
(これは他者目線から破綻してみえるだろうことを見越した予防線、と白状しておきます)
(以下の発想、特に資本論の変形を用いるあたりなど多少ふざけぎみですが、半分以上はかなり真剣に書いてます)
星街すいせいはどこにいるか
最初に結論を書いてしまうと、「星街すいせい」はどこにでもいて、しかしその正体はどこにもいない(強いて言えば象徴的に遍在する青が、最も抽象化されており、正体に最も近いあり方をしているかもしれない)。
価値は一方の形態から他方の形態にたえず移行し、しかもその運動のなかで自分を失うことはない。価値はこうして自動運動をする主体へと変容する。
このような「価値」に近いふるまいを、「TEMPLATE」MVに表現される、星街すいせいのそれとして当てはめてみたくなった。自己を増大させ、自己の範囲を拡大させていく、この運動のなかへ現れる星街すいせい。ただしこれも、ひとつの論理、ひとつの形態、ひとつの解釈に過ぎないわけだが。ここで語りたいのは、より大きく曖昧な何かについて。これであり、これではない何か。
人間の感知する能力には限界があるため、あるものを「星街すいせい」と名指しするとき、「星街すいせい」以上の何かであることが見過ごされてしまう。だが、「星街すいせい」以上の何かであるところの星街すいせいは、人が感知する「現実」の動作や生滅のなかへ満遍なく浸透しつつ、そうした人間の知覚による(仮想的)現実化の届かない、その狭間にまで潜んでいる。
これを星街すいせい不可知論とか言ったっていい。人間の意識が指向できない方向へ拡がる、周辺視野的な領域を介することで、ようやく朧げに、ぼんやりと、その似姿が、かりそめに形成される(ような気がする)。
であるからして、「TEMPLATE」MV中で歌う「星街すいせい」も、踊る「星街すいせい」も、王冠を被る「星街すいせい」も、上記したような存在以前の存在である(という言い方によってしか言い表せない)星街すいせいの、一種の代理的表象にすぎない。
むろん当人らは本人のつもりかもしれないが、他にアンチの「なりすまし」や、ファン(というか自治厨?)の心に宿る「すいちゃん」など……どの「星街すいせい」もほとんど等価である、星街すいせいにはとうてい満たない、詠唱的、名称的、視覚的、個別的、限定的な虚像に過ぎないのだ。
星街すいせいは、アイドルであり、アンチであり、ファンであり、自治厨であり、塑像であり、プレイヤーであり、ゲームマスターであり、クリエイターであり、ルーラーであり、そのほかエトセトラである。
しかし(正体という意味では)星街すいせいはそのどれでもない。そういう星街すいせいが、アンチやファンの行為や心理を内部からなぞりつつ、上位次元から俯瞰し、というより、その身体内、細胞や血流や神経へ染み渡りながら、それらすべての衆生の、世界へ受肉した「星街すいせい」としてのそれぞれの振る舞いを、その有様を愉しんでいる。
――そのような語り得ぬ存在としてある星街すいせいが、ほのかに、萌しとして匂い立ってくるような作品、「TEMPLATE」MVはそういうものだった。そしてこの感じは、現時点(2025年2月1日)の最新曲「ビーナスバグ」MV(冒頭から怒涛の青、青、青……そして不在。身体へ密かに忍び込み変性させるバグとしての……声、メロディ)にも通じていく。ここではもはや、本来その声の主体であるとされてきた姿さえ、不要とされる。
価値はその過程のなかでたえず貨幣と商品という二つの形態を交互にとりながら、自分の身の丈を変化させ、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を吐き出し、価値増殖をおこなう。というのも、剰余価値を付け加えるこの運動は価値自身の運動であり、価値増殖とはとりもなおさず自己増殖だからだ。こうして価値はみずからが価値であるがゆえに、価値を付加するという不思議な性質を獲得する。価値は生きた子供を、少なくとも金の卵を産む。
(…)
価値は貨幣形態や商品形態をある時には身にまとい、ある時には脱ぎ捨て、それでも、この衣替えのなかで自己を保持し、拡大していく。
以上noteへ記してきた空説じたいも、星街すいせいという価値が生み出す、吐き出されたひとつの剰余価値であり、増殖過程であり、衣替えの一種であり、その未成熟な表現だろう。そしてもちろん価値は、ここからも増殖していく。星街すいせいというその表現、その意志/意思は、見る、聴くという行為を経て確かにここへも浸透し、現にいま、このぼくの指を動かす。
星街すいせいは、ぼくであり、ぼくが、星街すいせいである(資本論におけるG-W-GまたはW-G-Wの変形――Gは貨幣、Wは商品)。少なくとも因果性を辿ればいかなる自他も不可分であり、その意志/意思の部分的拡張でありえる、といえるわけで、この部分は「やわらかい決定論(soft determinism)」的とか言っておく。
歌詞解釈はついでのおまけ
歌詞解釈は基本的にアンチと自治厨を含むファン心理について、になる。もちろんこれらもまた、その眼差しに補足され続けている、根源的には星街すいせいそのものとして包括される世界の事物だ。
画面の向こうのそのまた向こうで
(…)
その手に抱えた大層なテンプレートは持ち帰って
(歌詞10行目まで)
ネットを飛び交う言い争いの状況、その渦中にいて苦しむ「僕」の結論。「テンプレート」は大衆的でありきたりな雛型。大多数ファンの多数派的、教典的、類型的な、協調式の「正解」を激しく拒絶することで、特別の立場を確保する。(しかし、ほんとうにそれが「僕」の目に「どうだっていい」ものに見えているなら、対抗して自らの行動を先鋭化させる必要はない)
鏡に映った僕の色は全部
(…)
僕の全部、取り返さなくちゃ
ファンの人数が今ほどではなかった数年前は、存在として近く、やりとりも親密だった「僕の星街すいせい」を、いまでは訳知り顔の「アノニマス」が一般的解釈を持ち寄り、「みんなの星街すいせい」として虚像を作り上げ、祀り上げている。自分と星街すいせいの間に築かれてきた、特別な固有の歴史を無価値のように扱われ、無視される気分がして、そのことを嘆く「僕」。
ここでいう「僕の色」「僕の全部」というのは、「僕」が一種の原色のように想像する、「僕」が「星街すいせい」と築き上げたすべて、それらが混然一体となったもの。
何度遮ったって五月蝿いほどに鳴るノイズが
自治厨&ブロック祭り。「アノニマス」からアンチとカテゴライズされている「僕」。
もう僕は祈らない
この街の頭上を、降り注いだ慈愛を仰ぎはしない
僕のこの痛みも姿形も
誰に決められることもない
祈りの逆は行為や行動。天啓を待たない。歌詞に「仰ぎはしない」とあり、仰がなくてもよくなるのは「なる」からだろう。痛む主体としての僕が、全てを振り切るべく、なりすます決意をする。
「正解」なんてどうだっていい
どうだっていい「正解」というのは、「アノニマス」と蔑称されるファン一同に共有される、一般的解釈やルール。そのような外的要素を下位区分化する、絶対的優位性に至る最終手段とは、「僕」が「僕だけの星街すいせい」になること。未来永劫「正解」であり続けるには、「僕」が「星街すいせい」であればいい。
僕以外、何も要らない
全てを拒絶する「僕=星街すいせい」。これだけが「僕」には「正解」なのだから、「星街すいせい」がもたらす「星街すいせい」さえ、すでに不要となる。このあたり、なんだか『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を想起させた(というかおそらくぼくが、アレに、寄せている)。
青がすんでんじゃん(不可知性を象徴する青)
青は王冠に塗られているのか、それとも染み出ているのか。どちらかはわからないが、最後にもう一度、不可知論の核心を表現するものとして、青の象徴性を指摘しておきたい。当MVには満遍なく各所へ青(イメージカラー、星街すいせいとして想像される何かの象徴)が、画面すべてへ溶け込み、隅々まで浸透しており、ことあるごとに漏出し、その色を視聴者は受容することになる。
このしつこいくらいに繰り返し強調される色の意味は、ぜったいに見逃されるべきではないというか、むしろ誰もこれを「見逃してなどいない」だろう(飛び散る青、空の青、看板の青、眼鏡に映る青……etc)。
星街すいせいは不可知である、だがそれは幽かにみえてもいる(ゴーストみたいに?)。にわかにはそうとわからないだけで。
画面(つまり視聴者)に青を塗りたくるという、MVのラスト。このぼくだって、既に青へ染められた者の一員だ(という言明をもってしても、いつ、どこからという因果的根源へは辿り着けない。道は塗り潰されている)。
世界が青に染まりきっていれば、もはやその青さの涯を感じることもないだろう。ぼくがここで目にするすべては内容を青で満たされた鋳型であり、もちろん何事かをみて固定的解釈へ導く、この目にも青は浸透している。青はそれらすべてに満ち、いずれ滲みだす。この青は、万里一空おいて、個物としての完全さにはとどまることなく、なお澄み渡っていく。
こちらは当記事へのコメントを受けたことを契機に、哲学的な文脈を引き入れつつ、その力がぼくにはどのようなことと思われるかについて、改めて書いた記事です。