子どもの楽しい/楽しくない、を左右するもの#185
今年の元旦、「お正月と言えば、お正月映画だな」と、ふと思い立った。
子どもとも相談して、映画は「働く細胞」に決まった。
「え、アニメじゃないの?」という子どもの言葉が少し引っ掛かりつつ、そして、3年生の長男はともかく、1年生の娘には難しすぎやしないだろうか、と思ってしまったりもする。
私は、いわゆる「かくれ繊細さん」タイプで、周りの反応に人一倍敏感なこともあり、映画が始まってからも、子どもたちが楽しめているかどうかが気になってしまう。今回は、私が観たい映画でもあったので、子どもよりも、「まず自分が楽しむ」を優先することに決めていた。
ところが、「さすがにこれは難しいかな~」なんて思ってしまう場面ももちろんある。
そのたびに、「子どものために来たんじゃない」と自分に言い聞かせる。
しかし、後半、左隣に座っている娘の視線を感じる。
目が合うと、「あと何分?」と尋ねてくる。
「怖いのかな」「つまらないかな?」と内心思いつつ、「もう少しかな」と小声で囁く。それでも私への視線は続いた。
娘はあと何分で映画が終わるか、よりも、トイレに行きたかったのだ。
しゃがんで退出し、なんとかトイレに連れていき戻ろうとすると、「ちょっと怖い」と言い出した。
「ママさぁ、いいところだし、席に戻りたいな。怖かったら目をつぶっていてもいいし、入ってもいい?」に、頷いた娘とともに席まで戻った。
【娘は少し怖がっている】が私の頭の中の大部分を占めてしまっているので、私は映画にあまり集中することができず、トイレの後、半ば強引に連れ戻った娘のフォローをどうしてあげようか?を考え始めたりしていた。
「ちょっと難しかったね」「怖いところあったね」そうやって娘の気持ちを代弁しながら娘に共感してあげようと思ったものの(私のお決まりの対応パターンでもある)、これだと娘のネガティブ感情を強化してしまうのではないか、ということに気づいた。
そして、私は子どもたちの感情を勝手に読んで言語化するという従来のパターンを手放し、「面白かったね~~~!」「来てよかった~!!」と言った。映画は面白かったし、今日映画館に来て一緒に映画を観られたことは大大大成功!という勢いで、全肯定した。
最初、子どもの反応は薄かったのだが、少しずつ、嬉しそうに感想を言い合ったり、解説を始めたり、帰宅してから、そして翌日以降も、映画の話をいろいろと説明したり、面白かったことを、ばあばに教えたり、アニメ版の働く細胞をまた見直したりと、「働く細胞」ブームが続いている。
子どもが自分の気持ちを明らかに、つまり「面白い/怖い/好き/嫌・・・」などの感情を出していないならば、勝手に邪推せず、ただ自分の感想を言えばいい。
もしその感想がポジティブで幸せなものであれば、子どもだって一緒にポジティブの余韻に浸ることができる。
映画の内容よりも、ママが幸せなことの方が重要だったりする。仮に映画の内容が面白くなかったとしても、「そんな映画を一緒に観た」ことが大成功、でいいのだ。
これは、嘘をついてまで、「何でもポジティブにしろ」という話ではなく、自分自身の、物事の見方、捉え方次第で世界は変わるわけで、大人が楽しい世界を見ていたならば、子どもも一緒に楽しい世界を見ることが出来るのだ。お母さんが楽しければ、子どもはそれだけで嬉しくて楽しくなる。
子どもが何も言っていないのに、「ちょっと難しかったね」なんてわざわざ言わなくてよくて、「ちょっと怖かったね」というなら「ドキドキしたけど面白かったね」のほうがいい。
「子どもが物事をなんでもネガティブに捉える」のは「親が物事をネガティブに捉える方法を、実践的に教えてしまっているから」なのだ。
大人が気を遣って「難しすぎたかな」「ちょっとイマイチやったかな」などと、子どもの機嫌を窺うようにネガティブに寄り添う言い方を日常的にしていると、子どもの目の前には「わけわからん/面白くない」世界が広がる。
とはいえ、人間はどうしてもネガティブな情報や欠点などに注意が行きやすい生き物だ。そして、それを言葉にしてしまう。ものごとの捉え方を自分の言葉で無駄に下げてしまいがちだ。
何でもネガティブに捉え続けてきたネガティブ思考の持ち主である私が、それでも「敢えてネガティブに下げる必要ないな」と気づき、言葉を変えたら、オセロの色が一気に入れ替わるように、世界が変わった。
大人が変われば、子どもが変わる。
子どもを変えたければ、自分がまず自分の人生を楽しむこと。