有益な情報のシェア #141
普段、ほとんど雑誌を読まないのだが、母のところに行くと、いい記事をよく紹介してくれる。
私の役に立ちそうだな、というよりも私が好きそうだな情報を、私がアクセスしないエリアから持ってきてくれるので、とてもありがたい。
興味がない内容は、いくら有益な情報だとしても、入ってこない。
聞いてもいないのに「余計なお世話だ!」と思ってしまう。
昔はそう感じることが多かった。
良かれと思って薦めてくれているのだからむげに断ることもできず、「時間があったら読もうかな」なんて時間稼ぎ(言い逃れ)をすることもあった。
もちろん逆パターンもあって、聞きかじった情報から、「これは母にとって絶対必要だ!絶対知っているほうがいい!」と思ってしまうと、熱烈に推薦してみたりするのだけれど、母にとってはありがた迷惑でしかない。
あるとき、記憶術というものを知り、面白いと思った私は、母に嬉々として話したが、母は全く興味を示さなかった。
母は学習意欲が高く、いくつになっても毎日コツコツ勉強するし、読書家だ。
興味関心がむいたときだけ気まぐれで勉強する私とは興味範囲も学び方も全く異なる。
どちらかが「これはイイ!」と思った内容だとしても、現実には双方ともに同じように「これはイイ!」感じることはあまりない。
お互いがお互いのことを思っていたとしても、相手が望んでもいないものであれば意味がない。
「せっかく、いいもの紹介しているのに!」相手にしてもらえていないような気がしてしまい、ちょっとしたストレスを感じていた時もある。
石田勝紀先生がよく仰る話に
「いい情報・良さげな情報」を手にしたら、それを周りにも教えてあげたくなる。
でもそれはあくまでも情報に過ぎないので、その情報を受け取るか受け取らないか、受け取った後の行動が変わるか変わらないかはすべて、相手次第。
もはや、私のボールではない。
昔は、正直ちょっと負担に感じたこともある親子間の情報シェアは、長い年月を経て少しずついい塩梅になってきた。
相手にこうあってほしい、こうなってほしいという期待が見え隠れすると、途端にその情報は重くなってしまう。
そういう期待を手放したということなのかもしれない。
ただ単に、私が「面白かった」「ためになった」「良さそうな情報」をシェアしあうだけで、それ以上でも以下でもない。それが心地いい。
ただ、私が母に『初めて知ったメチャクチャいい話、学びになった話』などを自慢げに語ると、それは随分前に母が既に私にしてくれた話であるということがよくある。
そういう時は、純粋に「お母さんすごい!」と思う。
実際のところは、当時の私にはその話を理解するだけの力だとか、気持ちがなかっただけだという話なのだと思う。
物事の上っ面だけを捉えていた私にはなかなか理解できなかったのよね。
少しずつ深掘りして考えることができるようになり、少しずつ母の考え方やあり方に似てきた、ということなのかもしれない。
それはそれで、なんとなく嬉しい。