自分のことを「僕」と呼びたい。
自分の呼び方を「僕」に変えたい。
何故か。
そっちの方が、僕自身のキャラを上手く表現出来るような気がするからだ。
(関西弁だと相手のことを「自分」と言ったりするのでややこしいという理由もある)
以前、noteでやたら堅苦しい、論文調みたいな文章を書いたことがあります。
その時思ったんです。
あ、この文章「自分の言葉」じゃない、と。
自分で書いているはずなのに、自分の発した言葉のように感じられない。
何故か。
言葉の調子が、自分らしくないからだ。
最近気がついたんです。
コミュニケーションって、単なる文章の内容だけで成り立っているものじゃないんだって。
表情や体の動きのような非言語的な情報に関しては、本でそういうのに意識を向けるのがコミュニケーションのコツだと聞き、最近意識を向けるようにはしていたけれど、言葉の使い方とか、そういう所に気を配ったことは、今までに無かった。
しかし、よく観察すると、文章の調子を少し変えるだけで、受け手が感じる印象は全く異なってしまう。
それが自分自身の実態と乖離していると、自分で文章を書いておきながら、まるでchat gptに書かせたように、自分の言葉でないような感じがしてしまうだ。
これは、noteに限らず私の学校生活の中での日常的な会話においても言えることだ。
私の一人称は、「自分」です。
始まりは保育園児のころ。
周りの子供が「俺」「僕」と自分のことを呼ぶ中で、僕は「(本名)ちゃんは〜」というふうに自分のことを自分の下の名前で、しかもちゃんづけで呼ぶというふうに癖づいてしまいました。
そして小学生の頃、恥ずかしくなってその一人称を封印したけれど、いまさら僕や俺に仲間入りする勇気はなく、それから、後4年間続くことになる、会話中一人称禁止縛りが開始されてしまったのです。
時は流れ中学1年、一人称を失った状態で人と会話をしていた僕は、ある大きな発見をしたのです。自分のことを「自分」と呼べば良いのだと。いきなり「僕」とか「俺」とか言い出したら「お前いきなりどうしたん?」と言われそうだけど、これなら違和感が少なく、自然に移行することが出来ます。
それから、僕の一人称は「自分」に固定されていきました。
そして、現在に至ります。
僕の「一人称自分史」は、ざっとこんな感じです。
しかしココ最近、「自分」という一人称に対して、強い違和感を感じ始めました。
僕は、「自分」よりも「僕」という一人称の方が僕自身の性格に合っているような感じがしているんです。
些細な問題のように思えますが、私個人からすれば、自己のアイデンティティ表現に関する重大な課題なのです。
これからは、noteでの一人称を「僕」に統一することをきっかけとして、自分のことを「僕」と呼べるようにしていきたいと思っています。そして少しずつ、自己表現に適した言葉選び、そして、他の人の言葉選びからきちんと情報を得ることが出来るように自分を訓練していこうと思います。
精神的・肉体的共にしんどいことも多いけど、とにかく頑張るぞーーー!!
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