注文の多い料理店がわからない
発達障害だと言う言葉もまだ無いような時代。おとなしめで、真面目、あまり融通が効かない私は、それでも何とか、普通学級で過ごしていた。
当時のことを幼馴染に聞いたら「気づいたら1人でいる」印象があったらしい。
そのとおり、誰かと遊んでいても、大勢になってくると、自分の居場所がわからなくなって、その仲間の輪からぽいっと捨てられたような気持ちになっていた。
だから、授業の合間の休憩時間は、図書館や学級文庫の本を読んでいることが多かった。
そんな時、4年生の頃だったろう…に国語の教科書で習ったのが
【注文の多い料理店】
何が面白いか、まったく理解できなかった。と言うか、起承転結さえ理解できなかった。
国語を得意とする私にはこの上ないショックだった。何度読んでも、この話の面白さがわからないのだ。宮沢賢治という人は知っていて、「雨ニモマケズ」くらいは当然のように知っていたのに、まるで、異国語を読んでるくらいに理解できない。
ちょうどTVで「冗談!冗談!」というからかいが流行っていた頃のこと。当然、友人関係の冗談なんか、私には理解できない。時には日記に『恵子ちゃんと里美ちゃんに悪口を言われた』なんて書いて2人は酷く先生に叱られたことだってある。
つまり、私は冗談的ニュアンスが、全く通じないのだ。キツネを狩に行ったつもりが、化かされていたなんて頭の機転がきかなきゃわからない。額面通り、文字通りにしか理解できなかったのである。
「注文の多い料理店」がわからないという事はトラウマとして私の中に残った。なぜわからないのか、当時の私には、知る由もなかったし、当然、テストも散々だった。
わかるようになったのはいつ頃からかはわからない。中学生の頃にはわかるようになっていたと思う。つまり、私のその部分の発達は数年遅れていたのである。
冗談もわからない子を同級生は敬遠するのは当然だろう。なぜ、私が避けられるかについて、毎年変わる担任も理解できなかったし、親でもわからなかった。
54歳で発達障害と診断されて、ああなるほど、と思えた。なのに頑張ってた私。友達の言葉に傷ついて、先生言いつけたりして傷つけたりして不器用な子ども時代の私の頭をなでてやりたくなる。
こうして、子ども時代の私をひとつづつ愛ししなおしていくことが、私が私を生き直すことにつながるのだろう。
【注文の多い料理店】
私の痛い記憶の忘れられないお話である。
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