遥か38万キロのボヤージュ
月へ行くという科学的なアプローチ
御伽噺にみた、月の遣いに連れられ、空を飛ぶ牛車で月へ帰るかぐや姫の図
小さな頃に感じた原初的なファンタジーの一端に、心躍った人も少なくないのではないだろうか
さて「月へ帰る」、それはかぐや姫が月の住人であるが故にそう表現されるが
この「月へ帰る」という言葉には、何か幻想的で空想的な感覚を抱かないだろうか
我々地球に生きとし生けるものとして、月は行くものとして捉える、至極当然だと思う
私は「月へ行く」という言葉に、アポロ計画や宇宙旅行といったような物理的、科学的アプローチの印象を受ける
我々は科学世紀の住人である、膨大な数字の羅列から数式を紐解いて、論理的思考で「月へ行く」という『夢』を追い求めていたのである
『本気で月に行こうって考えたんだろうね
なんだか愛の理想みたいだね』
ポルノグラフィティもこう申しておりました
その理想や夢を「科学的」に達成しようとする取り組み、やはり科学世紀の住人だと実感する
月へ帰るという幻想的なアプローチ
一方、月の住人であるかぐや姫は最古の物語とも言われる「竹取物語」に登場するとあって、まだ伝統的自然哲学の時代である(地球はね)
この物語上の月の社会形態諸々がどう発達しているか定かではないが、空を飛ぶが乗り物は牛車であり、月の使者の衣装から見ても平安時代日本とそう変わらない時代社会であると考えられる(平安時代の物語だから当たり前なのだが)
したがって、月の世界もおそらく伝統的自然哲学時代を生きているものと思われる
この時代に体系化された、今でいう科学技術という概念はなく、空を飛ぶことや水面を歩くことなどは、前時代的な超自然主義的思考のものとして捉えられていたであろう
つまるところ、「月へ帰る」という言葉が幻想的なのではなく、この時代では月への「行き来」そのものが超自然的なものとして捉えられる
あれ?平安時代でいえば月の行き来双方が超自然なのか、そりゃそうだろ(自己完結)
月まで届け、不死の煙
閑話休題
逢ふことも なみだに浮かぶ わが身には 死なぬ薬も なににかはせむ
『竹取物語』の帝がかぐや姫へ2度と会えないことを嘆き、もらった不老不死の薬をとある山の火口で焼いてしまった
そこから転じて不死の山、諸説あるが薬を焼くために沢山の武士を連れ立ったことから「士に富む山」に因んで富士山と呼ばれるに至ったそうだ
その不老不死の薬を焼いた煙は、今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられているそうだ
徐福伝説として知られる徐福が、不老不死の薬を求めて富士山へ至ったことはなんの因果であろうか
その富士の煙に関係深い歌がある
風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな
この歌は、風になびく富士山の煙は空に消えてその行方も分からない、 まるで私自身のこの思いと同じように、と詠まれている
かの西行法師の歌である
理科学と超自然の狭間で
かぐや姫にみる、理科学的アプローチと超自然的アプローチ
その実、時代背景に沿ったごく自然な発想からなる双方の捉え方ではあるが、要は僕が好きな東方projectの「月面ツアーへようこそ」という楽曲から、ふと思ったことを書き連ねたかっただけなのである
月へ行く=アポロ計画や宇宙旅行=理科学的
月へ帰る=月の使者や空飛ぶ牛車=超自然的
字面から受ける印象の対比が面白いなということ
思いついた時は結構衝撃だったのよ?
平安京エイリアン(無関係)
もののあはれ
理科学的であれ、いっそのことポエティックな夢想論であれ、人々の情趣や哀愁は尽きることのない美的意識として、これからも連綿と続いていくことであろうね
科学という「情報」に埋め尽くされたこの時代
若人たちが路を違えることのないように
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