良き日の背徳めし
週末の朝、気持ちよく目覚めるとシェービングクリームを頬に塗り、いつもより丁寧に髭を剃る。髭剃り負けには注意しよう。今日は負けるわけにはいかないのだ。
パリッと糊の効いた真っ白なシャツに腕を通し、シルバーグレーのネクタイを締めると、俄然気分が高揚し、背筋にピンと緊張が走る。
久しぶりのスーツは、腰まわりがひとまわり小さくなっていた。日頃いかに怠惰なスウェット生活を送っていたかを感じさせるが、一瞬で忘れることができる。
なぜならベルトの穴をひとつ緩めれば済むだけのことだ。歳を重ねるうちに、こういう臨機応変で都合のいい解釈が簡単に出来るようになった。
鏡の前に立つと、それなりの紳士もどきが現れた。
昨晩磨いておいた革靴を履くと、いざ、待ちに待った背徳めしの会場へ出発である。
高層ビルのエレベーター、耳が詰まったような感覚をタイミングの良い大あくびがパキッと直してくれた。
エレベーターを降りると六本木ヒルズを下に見る高層階、澄んだ青空と遠くに見える日本一の山も、これからの背徳めしのお膳立てには申し分はない。
まずはお祝いの言葉を述べなければならない。そう簡単に背徳めしにはありつけないのだ。
もちろん失礼のないように一週間も前から立派な言葉を考えてある。
あたたかな拍手をいただき、席に着けばいよいよである。私のテーブルウェイターにピースサインでバケット2つお願いする。
バターディッシュの蓋を開け、4つある塊のひとつをナイフで掬ってボクのエリアに持ち込む。
荒壁土に漆喰を塗って滑らかな壁を作るように、たっぷりのバターで、バケットのボコボコ気泡を綺麗に埋めれば準備は完了だ。
キンキンに冷えた白ワインを一緒に食すれば、ボクだけのとても素敵な背徳めしとなる。
次々と運ばれてくるポアソンやヴィアンドなどは雑多なおつまみでしかない。
いち早く空になったバターディッシュに、恥ずかしさや後ろめたさを感じながらするおかわりは、もはや背徳めしの一部であり、快感さえ覚えるようになる。
最後はデゼール、綺麗に飾られたアイスクリームを見て、ふと思い出した。
コンビニのカップアイス。
フタ側についたアイスクリームをひそかに舌を這わせ直に舐める、ちょっと背後を確認してからおよびたくなるあの行為、それもボクだけの背徳めしに相応しい。
たっぷりバターのバケットに夢中で気が付かなかったが、同じ会場ではお似合いのカップルが親族やお友だちに祝福されて、華やかに結婚披露宴が行わなわれていた。
おめでとう、みなに幸あれ。
今日はなんて良い日だろう。
*漆喰:漆喰を使った壁は「呼吸する」と言われ冬場の乾燥や夏場の湿気を防ぐ効果があり機密性の高い現代住宅に最適な壁材である。
*バケットのボコボコ気泡:味、香り、食感が特段に良くなるためベーカリーはボコボコ気泡を目指してバケットを焼く。
*ポアソンやヴィアンド:仏コース料理で言うポワソンは「魚料理」、ヴィアントは「肉料理」のこと。
*デゼール:仏語で「デザート」のこと。