【短編小説】新卒産休
ジレンマ
「お時間ありますか」とゆきから誘いがあったのは、業務が終わってすぐのことだった。二つ返事で承諾し、会社の外で待ってることを伝えたが、「お店送ります」とスマホにURLが送られてきた。会社から2駅ほど離れた和食のお店だった。
残業をしている1年目の中にゆきの姿がないことから、どうやら既に退勤しているようだった。首をかしげながらも、彼らに声を掛け、私はまっすぐにお店へと向かった。
「あっ日菜子さん、おつかれさまです。すみません急に」
案内された個室に、ゆきはいた。飲みの場にいつもいない彼女がこうして席についているのには、わずかに違和感があった。
「私は全然平気。ただ、珍しいからびっくりしちゃった」
「そうですよね、すみません。とりあえずお食事頼もうと思うのですが、どうされますか?」
ざっとメニューをめくり、それぞれで定食を頼んだ。いつものごとくお酒は飲まないとのことだったので、ウーロン茶が二つテーブルに並んだ。控えめに乾杯をしマスクを外す。ちらりと見たゆきの唇は、丁寧に塗られたリップで光っていた。
「早速だけど、何かあった? もしかして、同期と上手くいってない?」
場を和ますネタとして最初の話題にしたつもりだった。
「あーそれもなくは無いですけど」
ゆきは視線を少し下に落とし、おしぼりを触った。何事もそつなくこなしている印象が強い分、そこに続く話の先がわからなかった。
「いや、同期とは仲良いです。仲良いですけどね」
「そうだよね。研修終わりに飲みとか、行ってるもんね」
「でも私、お酒飲めないんですよ」
うん、という私の短い相槌が、やけに個室に響いた。不自然なことに気づき、すぐにでも話の続きを促したかったが、どんよりとした空気がそれを阻んだ。ゆきとふたりで話せるせっかくの食事な分、つとめて明るい場にしたかった。
「たしかに。お酒の印象は、私からもあんまりないね!」
「妊娠、してるからなんです」
溶けた氷が、ウーロン茶の中で震えた。
驚けばいいのか、祝福すればいいのかわからなかった。上司として、気を許された相談相手として、女として。適切な言葉は、見当たらなかった。
「日菜子さん、気づいてました?」
「いや、ぜんぜん……」
「最近になって、だんだん大きくなってきたんですよね。一応7月から、産休に入ります」
「ほ、他にそのことを、誰か知ってるの?」
「中牧さんには言いました」
産休に入れるということは、上司にも話がいっているに違いなかった。おめでとうやがんばってという言葉の先に、仕事上の弊害を聞いてしまった自分を情けなく思った。
話の区切りを察してか、扉が開き、料理が運ばれてくる。湧き上がる湯気にさっきまでの空気が混ざり合うことで、幾分か雰囲気が緩和されたように感じた。
「じゃあ、赤ちゃんの分までたくさん食べなきゃだね」
「あはは。報告したのが日菜子さんでよかったです」
私は、妊娠を喜べなかった自分を打ち消すかのように、その後はゆきと向き合った。
アルコールの入らないその時間は、入社以来、最もクリアな夜になった。
7月になり、ゆきは産休に入った。研修期間が終わる頃の報告だったため、メールでそのことを知った1年目たちは、動揺していた。
「今産休ってことは、入社前に妊娠がわかってたってことだよな」
「内定もらって、4年の夏か秋なんじゃない?」
「ドラマみたいで良いけどさ、正直女性としては結構困るよね? 男ならまだ、普通に働けるからいいけど」
「本来喜ばしいことなのにな。なんか、腑に落ちて祝福できないの、もやっとする」
ゆきの話題は、主語がなくてもすぐにわかった。人の妊娠を、素直に祝福できないもどかしさを、他の人も抱えているらしかった。トイレから出ると、その会話をしていたであろう2人と出会った。せっかくだからとゆきのことについて聞けば、2人は顔を見合わせた。
「いや、なんで今なんだろうって思いました。ゆきちゃんも、この会社に入ってやりたいことあっただろうから」
「正直、祝いたいけど、できないって感じですね。矛盾がくっついているような、そんな感じです。難しいですよねたぶん」
作業スペースに戻りながら会話をしていると、窓の近くに人が集まっている。
「どうしましたか?」
「うちのビルの近くに、救急車来ててさ」
指を指された方を見ると、確かに救急車が見えた。運ばれた後なのか、医療スタッフの姿は見えない。そろそろ作業に戻ろうと視線を外せば、サイレンと共に救急車が走り出す音が聞こえた。近くの建物だからこそ、無事であって欲しいと思った。加えてふと、もしゆきがこの場所から救急車を使うとしたら、という妄想が膨らんだ。
だんだんと遠ざかっていくサイレン。それが、何のために走っているのか、わからなくなった。
「救急車って嫌なイメージしかないですよね。もし出産を控える音、みたいなのがあれば応援できる気がしません?」
既に作業に取り掛かっていた1年目が、戻ってきた私にそう問いかけた。私は、そうだよねと言うことしかできなかったが、仮に2種類のサイレンがあっても、応援の言葉は、心の中に仕舞われたまま出てこないだろうと思った。
自席に着き作業を再開する。しかし頭の中は、したいけどできない数々の事柄が浮かんでは消えて、そしてまた浮かび、脳内を埋めていくのだった。
了
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