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歴史のレポート(4293字)

1 古代ローマに関して、共和政の成立から、対外発展。
そして、その結果に付いて論述せよ。

2 「絶対主義」とは何か? 具体例を挙げながら説明しなさい。


大学時代に書いた。
合格したレポートを載せます。
必要としている人に
参考になれば幸いです😊

《注意事項💥》
丸写し禁止🙅
引用のみでお願いします😅


1  共和政ローマの成立は、王の追放から始まった。
ローマは誕生当初、王を戴く王政だったが、王と貴族の対立から、戦争を経て、成立した。
以後《王などいらん!》と、言う不文律が出来上がり、政治は二人の執政官、平民の権利を守る護民官、助言機関としての元老院が中心となって行い、ローマは発展していく。
その結果、周辺諸国との軋轢(あつれき)を生むに至り、ローマの発展は《国防》に深く根ざしたモノとなった。
そのキッカケとなったのがBC390年に起こった【ケルト族来襲】である。
ケルト族はローマをしばらく占拠し、略奪、破壊のかぎりを行なった。
ローマはこの時の敗因を冷静に分析。
改革、発展の礎(いしずえ)にした。
まず、国内において貴族と平民が対立していたため、その解決に尽力。
国外では他の部族と取り交わした、同盟の内容を変更した。
それまでの同盟は約束事に過ぎず、結束が弱かった。
それをローマを盟主とする連合軍事同盟(ローマ連合)へ、刷新した。
結果、連合に加わると、ローマの傘下に入る事になり、ローマの存在は大きなモノとなった。
その頃、ローマが築いた道路網が、イタリア半島全土に達し、半島統一が成立した。
その結果、ローマの周辺は海となり、ローマの歴史の舞台は地中海、主に西地中海へ移った。
BC265年、歴史は大きく動き始める。
イタリア半島のつま先に位置するシチリア島から、ローマへ救援要請が来たのである。
以前から紛争が絶えない地域で、国防上、放置しておくワケにもいかず、ローマは事態の収拾に動いた。
兵を派遣して、地域一帯の鎮静化を図ったのだ。
しかし、シチリア島の西半分は、北アフリカの大国《カルタゴ》な勢力圏であり、両者は衝突。
後に「有史最初の世界大戦」とも呼ばれる戦い【ポエニ戦役】が始まった。
この戦争は3度行われ、いずれもローマが勝利する。
それはローマの技術の進歩、国の発展を促す大きな要因となった。
まずは最初の戦い、第一次ポエニ戦役(BC264~261年)において、ローマは初めて海の戦いを経験。
造船技術と航海術を身に着けた。
2度目の戦い第二次ポエニ戦役(BC219~201年)では、敵の司令官・ハンニバルが率いる軍団に連戦連敗を重ね、ローマは城壁にまで敵に肉薄されるほどの危機を迎えてしまう。
しかし、ハンニバルの戦術を研究し尽くし、最終的には勝利を得る。
この戦いでローマ軍の戦術能力は、著しく向上した。
そして第三次ポエニ戦役(BC149~146年)は、最後の仕上げとなった。
カルタゴは三年に及ぶ籠城のすえ、滅亡。
結果ローマは北アフリカの西半分を勢力圏に組み込み、名実ともに大国となったのである。
ところが、それは急激な発展だったため、後々、ローマを苦しめる事態を招いた。
まず、領土拡大が国境線の拡張に繋がり、異民族からの防衛を困難にし、侵入を許した。
また、土地は増えたものの、その多くは貴族に独占され、貴族と平民との格差は拡がった。
社会不安は同盟者(ローマ連合傘下の部族)の離反を招き、内戦が勃発する。
【同盟者戦役】と呼ばれる戦いだった。
他にも、剣闘士達による反乱【スパルタクスの乱】 《貴族派》《平民派》に割れての政争。
そして、また内戦。
それらが見事に解決され、帝政に移行するまで、ローマの試練とも云うべき状態は続く。
ポエニ戦役終結から約130年後、BC59年《ユリウス・カエサル》が執政官に就任。
帝政ローマへの移行が始まったのはこの時からと言える。
カエサルは、まず格差の元となっている土地問題の解決を図り、【農地法】と云う法案を成立させた。
これは土地の借用を円滑に進めるための法案であり、土地のの多くを平民に解放する内容だった。
カエサルは平民達に歓迎され、人気を得る。
そして次の段階へ駒を進めた。
【ガリア属州総督】への就任。
ガリアはローマな北に広がるガリア人(ケルト人)の土地で、各部族の利害が複雑に絡んでいた。
カエサルの使命は、この地域一帯を安定させ、ローマの安全に繋げる事である。
カエサルは8年がかりで、ガリアを平定、それを成した。
そしてローマへ帰ろうとした矢先。
BC49年、ローマからカエサルに命令書が届いた。
《軍の解散命令》
カエサルは命令を拒否。
ルビコンと呼ばれる川を渡り、ローマへ向かった。
その後、3年に渡る内戦を勝抜き、任期10年に及ぶ【独裁官】に就任。
この役職はローマの最高権力者であり、さらにBC44年、任期に期限が無い【終身独裁官】となった。
帝政への改革は一気に進み、成立した法案は22項目に及ぶ。
《暦(こよみ)の改定》《通貨開殻》《金融改革》《行政改革》《司法改革》など……。
細かく分ければ項目はさらに増える。
その中で対外発展に繋がる政策を挙げるとしたら《属州統治》が、それに当たる。
属州とはローマの植民地であり、多くの民族の住む自治州である。
カエサルはそれらを再編して、国として機能を向上させた。
それは対外に睨みを効かせ、抑止力とする事を意味している。
ローマ周辺には、ローマの覇権を認めた同盟国(エジプト・マウリタリア・ポントスなど計6カ国)もあり、それらの国々からは、常にローマから守られている事を印象付けた。
しかし、それを磐石(ばんじゃく)にするには、ローマの過去を清算する必要があった。
カエサルがガリア遠征中の頃、ローマは東の大国パルティアに大敗した。
《カッレの敗北》と言われる大敗北だ。
雪辱を果たさなければ、同盟国に示しがつかない。
カエサルはパルティア遠征を計画した。
ところが、その計画は実行される事は無かった。
BC44年3月15日、カエサル暗殺。
帝政への移行は中断された。
しかし、カエサルの甥(おい)オクタヴィアヌスが、その後を継ぎだ。
2度の戦争を経て《ローマ帝国・初代皇帝アウグストゥス》となり、帝政を実現。
その後、40年間ローマを統治した。
その結果、ローマは全地中海世界を影響下におき。
かつて《王などいらん!》と謳っていたローマに帝政を根付かせるコトに成功。
ローマの対外発展は、帝政の移行と共にほぼ終了した。
その後は国内の繁栄に力を注いだ。

《参考資料ローマ人の物語1~16  塩野七生》


2 《絶対主義》または絶対王政とも呼ばれる政治体制は、王を中心とする強力な中央集権体制を言う。
中央集権体制は古くから存在するが……。
取り分け、近代ヨーロッパの絶対王政は、ただの権力ではなく、契約と深く結び付き。
後の社会変革の布石となった。
その流れは各国とも一貫しており、共通点も多い事が挙げられる。
それは。

①商業の発達 ②技術の進歩 ③資本の蓄積 ④交通の発達 ⑤消費の増加

それらは市民、または《初期資本家》とも呼ばれる富裕層を出現させた。彼らは莫大な富を力で王と結び付き、商売を円滑に進めた。
王の方は、市民から上がった税収が王権強化へ繋がり、それまでの王とは様変わりした。
王はそれまで、貴族同士の間を取り持つ、仲介人ほどの存在でしかなかったが、その程度では収まらなくなる。
王権の強化を現すもの。
その一つが《常備軍》である。
常に潤沢な資金が無ければ、維持できない。
それが出来るようになった事で、地方を治める貴族達への圧力となった。
さらに【王権神授説】が唱えられた事で、権力の正当性が維持された。
王権神授説とは以下のような内容である。

「王の権力は神によって与えられた、神聖不可侵なもので、何人も侵すことはできない」

この考えは、かつてローマ帝国がキリスト教国なった際、それまでの市民に選ばれた皇帝から、神に選ばれた皇帝とする事で、権力の安定と維持を保証した事例に、非常によく似ている。

《常備軍》《王権神授説》中央集権体制を支える要素は、それら以外に《官僚制度》が挙げられる。
歴史上、中央集権体制の失敗例を挙げれば、厖大な行政処理を行う官僚機構の未整備が原因になった場合がある(※日本の《建武の新政AC1334~1336年》)
潤沢な資金がある事で、高度な官僚制度を維持する事が可能となった。

時のフランス国王・ルイ14世は。
「朕は国家なり」
と、称した。
貴族達の力は弱まり、王の下(もと)に集う《縦社会》が築かれた。
それは言わば国一つが一つの家、組織としてまとまっている。
それが国家であり、国家は契約によって成り立つ。
時のプロイセン王国(ドイツ)のフリードリヒ2世は、以下のように称した。
「君主は国家第一の公僕」

冒頭で述べたように、絶対王政はただの権力ではなく、契約と深く結びついている。
過去の絶対主義、中央集権体制は契約も何も無く、ただの独裁だった。
古代シナ(中国)における【皇帝制度】(BC221~AC1911年)が、その典型である。
近代ヨーロッパにおいて、絶対主義は神と人との契約、それも絶対の契約と言う概念を持つに至っていた。
そこには絶対の神、唯一の神に奉ずる、キリスト教が大本になっている。
その精神か民衆、特に市民層に浸透して、契約社会の下地となったのだ。
そして、後に近代ヨーロッパを創り上げた、後に契約による縦社会は、大きく変貌する。
それは《縦の契約》から《横の契約》への大転換だった。
【市民革命】と呼ばれる、その一連の出来事は、それまでの社会を瓦解させたと思われがちだが【変換】ど称した方が正しい。
縦の契約は王権を始めとする、特定の者達だけが有する権利。
言わば絶対の《特権》が社会の機軸となっていた。
それが革命によって横との契約《人と人との対等な契約》に変わった。
特権に代わるその権利は《人権》と呼ばれる。
市民社会がヨーロッパ全体を覆い。
現代へ通ずる、社会構造が出来上がった。

過去、最初に挙げた5つの条件(商業の発達、技術の進歩など……)を満たし、近代化寸前にまで行った文明は多く存在する(※古代ローマなど…)しかし、結局、近代化には至らなかった。
絶対主義とは何か?
絶対主義とは、市民社会を生み出すのに欠かせない要素であり、国民意識を醸成する、近代国家の生みの思想である。

(参考資料 《悪の民主主義》《日本国憲法の問題点》《痛快! 憲法学》《日本人のための宗教原論》など……全て小室直樹の著書 その他 ローマ人の物語38~40巻 塩野七生) 


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