【記録・雑感】インターネットシーンを通じて音楽を好きになった話
そんなに音楽を好きでない期間が長かったと思う。
正確には、自発的に好きではなかった。
小学生時代、楽器の習い事をしていた。
教科書の楽譜なら抵抗なく読める、くらいの理由で、積極的に音楽に取り組んでいた。
中高時代、世はAKB48やジャニーズグループをはじめとするアイドル戦国時代だった。
どこかのグループのファンなのが当たり前で、「嵐だと誰が好き?」がコミュニケーションの一部だった。
そんな中で、独立した自分の「好き」がある人に憧れていた。
「これね、神聖かまってちゃんっていうバンドなんだけど」
照れくさそうに片耳イヤホンを貸してくれたクラスの女の子と、バンド名のギャップに驚いた記憶がある。
どこからみんな自分の「好き」を探してくるんだろう?
そんなふうに思っていた私が、10年後、今はインディーズバンドを喜んでディグり(※)、国内外問わず好きな音を作るアーティストをyoutubeで収集している。
※ディグる:dig(掘る)を由来として情報を(深いところから)探すことを示す新語。音楽に由来がある。
この10年、何があったのだろう?
きっかけは幾つか思いつくが(もちろん単に「大人になった」というもの含め)、私に一つの手引きをくれたのは確実に、VOCALOID(※)やVTuber(※)をはじめとする「インターネット音楽シーンの歩み」だった。
偶然、そんなことを思い出すきっかけがあったので、noteの募集「#私の推しキャラ」と合わせて紹介してみたい。
※VOCALOIDについてはこの記事を読む人には今さらかと思うが、こちらで。VTuberについては私の見識が追い付くのもwikipediaが限界だった(こちら)。
1.私とインターネット音楽シーン
VOCALOIDの黎明
私がインターネットをおそるおそる自分で使い始めたのは、2007年、まだ小学生の時だったと記憶している。
当時は前述のVOCALOID文化がまだ黎明期で、ニコニコ動画のランキングには東方アレンジ楽曲が多く存在していた。
ちなみにこの頃の私の推し曲はいえろ~ぜぶらの「氷結娘」、推しキャラはフランドール・スカーレットである。
兄弟の影響で東方アレンジを聴いていた私は、やがて友達とのカラオケや雑談を通して、VOCALOID、とりわけ初音ミクの存在を強く意識するようになる。
最初の認識は「東方アレンジのランキングに食い込んできた、ライバル」であった。
キャラクターとしての爆発的人気があったことも、そんなライバル意識を加速させた。
しかし、2007年末に公開された「メルト」をはじめ、ミクの曲が当たり前に「人間も歌うような曲」になってくる。
俗に言うメルトショック(※)である。
※メルトショック:「キャラクター・ミクが主人公の曲をクリエイターが作る」ではなく、「クリエイターが自由に表現した曲を合成音声が歌う」にボカロシーンが転換した現象のこと(参考)。
こうなると、ボカロ曲の裾野は広がり、個人で音楽を作る人々がどんどん自分のオリジナリティを発揮した楽曲を発表し始める。この中で、私にとってもミクや他のVOCALOIDの声は、「ライバル」ではなく「聴いたこともないつくりの新しい曲が出てくる、面白い現象」になっていった。
私は、歌声を「推しキャラ」的な目で見なくてもいいことに安心してボカロを聴き始めたのだ。
2008年「悪ノ召使」「炉心融解」
2009年「ダブルラリアット」「右肩の蝶」「ロミオとシンデレラ」「パラジクロロベンゼン」
2010年「弱虫モンブラン」「おちゃめ機能」「深海少女」「ハッピーシンセサイザ」「ネトゲ廃人シュプレヒコール」…
といった曲が、当時のカラオケで私や友達がお互いに紹介する定番ラインナップになった。
VOCALOIDの非人間的な質感やネット文化との親和性を活かした曲もあれば、当時のメインリスナーである若者の心理に寄り添ったポップで可愛い曲もある。
いずれも私にとっては「ボカロでなければ触れなかった世界」だった。
東方アレンジ文化圏からやってきた私はおそらく当時、「共通する素材を使って、色々な人が自分の視点を活かした作品を作る」という現象自体に面白さを見出していた。
だから、歌手性が押し出された、テレビで流れる曲よりも、「作者が見える」「コメントを打てば本人に届く」ボカロ曲を愛したのである。
この人のボカロ曲が好き
こうして発表年を遡っていて感慨深いのは、私がもっと後に好きになるkeenoや西沢さんP、ピノキオピーといったアーティストがとっくに活躍していることである。
やはり後にビッグになる人々は、興味を惹く分野の登場まもなく、手を出し活動を開始しているのだ。
というのは、ここから先が、私の「好き」ができてくる頃なのだ。
2011年、私は高校生になる。
だんだん自分のものの考えがしっかりしてきた私は、「ボカロであれば無差別に聴く」のではなく、「自分が好きな曲を探してそのアーティストの曲を深堀りする」ようになっていく。
Neru(押入れP)、niki、ふわりP、ぽわぽわP(椎名もた)、石風呂、ジミーサムP……
「この人の作る曲のここが好き」と語れるアーティストが増えていった。
とはいえ、この時の私はまだ「ボカロ」という枠の外に出られていない。
やがて、「ボカロP」だったアーティストが自身の作った曲を歌ったり、人間のボーカルに歌ってもらったりするのが当たり前になる。
supercell(ryo)、米津玄師(ハチ)、様々な「歌ってみた」アーティストたち。
こうした流れを、当時の私は「まあでも、私が特に聴いてるアーティストで歌い出した人いないしな」と概ねスルーしてボカロを聴き続ける。
※ふつうに好きな人もいるし好きな曲もある。
2014年以降、私は大学生。「音楽に疎い」という自認のまま、初めて自分で「買わずにはいられない!」と飛び出して買ったアルバムは、Orangestar(蜜柑星P)の「未完成エイトビーツ」。続いて「月を歩いている」からn-buna(ナブナ)も熱心に追いはじめた。
人間の歌を好きになれるかな
ここで大事件が起きる。
n-bunaが「人間に歌ってもらった曲で」大ヒットするのである。
私にとってほとんど、自身の音楽史で初めての、「人間が歌っている曲に感動するかどうか迫られる場面」だった。(念のためだが、ここまで一つもボカロ以外で好きな曲が無かったわけではない。作曲者への思い入れの強さでn-bunaが私の一つの区切りになっていた。)
当時の私の感想は、「まあ大切な人が死んだみたいな曲がウケるのは当たり前じゃん」という微妙に冷めたものだった。
この後のn-bunaが「ドラマチックに人が死ぬストーリーって売れるじゃないですか」という歌詞を書いていることを思うと思いっきり乗せられているというか、やはり感性に同意というか、面白い現象である。
しかし大学くらいになると、友人がバンドデビューしてライブに呼ばれたり、自分の狭さ浅さが恥ずかしくなったり、色々「人間の歌」に触れる動機もあるものである。
「私も好きになれる人間ボーカルの曲ないかな」と、課題をやりながらぼうっとBGMにyoutubeを自動再生していて、衝撃を受けた。
メッチャ好みの曲が流れてくる──この作曲者は誰だろう──
n-bunaだった。
何なら前述の「言って。」より前にニコニコ動画に投稿されていた。
「人間の歌」をあまりに聴かない私は、サムネイルが実写の女性であるだけで「靴の花火」をスルーしていたのである。
私の中で倒錯が起きていた。
「キャラクター」としての歌声に興味が無かったはずの私は、「VOCALOIDの声しか聴けない」状態になっていたのだ。
これに気づいた私は慌ててヨルシカの作品を聴き始め、他にも好きになれる「人間の」歌声を探し始める。
しかしそう簡単には行かなかった。
あまりにボカロ文化圏以外を知らなかった私は、感情の籠もった歌声や男性ボーカルに違和感を覚えるようにすらなっていたのである。(これも注釈であるが、生身で好きな歌声の人も、男女問わず個別にはたくさんいた。ヨルシカのsuisに関してはこのときから大好きだ。ただ、私の感性が総合的には変なことになっていた。)
まあ、いいか。
音楽にすごく興味があるわけでもないし。
n-bunaやOrangestarのことは相変わらず好きだし。
と言いつつ、彼らがボカロの活動を休止したり、投稿頻度が落ちて行ったりする。
なんとなく、「好きになれる新しい曲が少ない」という虚無的な時間を過ごして(ありはした)、2018年。
二度目にして決定的な、「人間の声」事件。
推し、襲来
バーチャルシンガーにハマった。
名前は花譜。
ボカロPとしてのカンザキイオリの曲を探していて、なんとなくTwitterアカウントに飛んだら、「心臓と絡繰」のPVがRTされていた。
なんだこの爆裂エモーショナル映像は。
なんだこの女子受けするシンガーソングライターがやってるみたいなInstagramは。
なんだこの儚げな歌声は──えっ、中学生?
「作り手に興味があった」私は、当時から「若年クリエイター」と聴くと食いつく傾向があった。自分の年代からの共感や、これから長い時間活躍するだろう新しい才能を、早くのうちに見つけたいという渇望のためである。
当時中学生で、カラオケアプリに歌を投稿していた無名の花譜は、その生活を壊すことなく活躍の場を広げるために、バーチャルの仮面を被ることになった。
クリエイターとは少し角度が違っても、そのプロフィールはすぐに私の目を惹いた。
彼女の当時投稿されている歌を全部聴いた。
「猛独が襲う」や「死んでしまったのだろうか」に泣いた。
「回る空うさぎ」でOrangestarを歌ってくれていることに喜び、彼女が歌う「君はまだ大丈夫」であれば信じられると思った。
オリジナル曲もすぐに身体に馴染んでいった。
むしろ、ボカロPとしては「有名だから当然知ってる」認知だったカンザキイオリの曲を、花譜オリジナル曲でもっと好きになった。
ボカロPとしては、叫ぶような、苦しそうな機械音声が持ち味だったカンザキイオリの作曲を、花譜は「優しく」「呟くように」歌うのである。
「歌う人」を通して、「同じクリエイターのなかに、そんな表現もひらけているんだ」と知る体験だった。
それから5年。
花譜を擁する神椿スタジオのアーティストも増え、2022年には武道館ライブも実現した。
カンザキイオリは一方、自分の作曲に戻るために神椿スタジオから独立した。
私はカンザキイオリが書かなくなった今も、花譜のファンでいる。
「歌う人」を、ようやく好きになった。
2.こうして私は推しを推す
推し「キャラクター」という名で花譜を推すのは、違うのではないかと以前から薄々思っている。
花譜はあくまで、実在し、日々進化し、周りから合わない声があれば悩むであろう、一人の人間の仮面である。
けれど、こういう「キャラクター」文化を通じて自身を発信するシンガーは、増えてきた。
私の花譜以外の推しを紹介しよう。
まず一人は長瀬有花。
note記事でもありがたいまとめがあったので引用させていただく。
とろとろの歌声と「隣にいる」ようなゆるい発信スタイルの相性がよく、最近注目して見ている。普通の女子高生っぽいキャラデザがそこに可愛らしくハマる。
次に凪葵。
まだキャラデザもなかったころ、アカペラのショート動画などで色々なメジャー曲も歌っており、ヨルシカのsuisを思わせる透明感のある歌声に惚れ込んだ。
アバターがなくても歌っていたシンガーの一人だが、キャラクターとして確立したあとはMVもついたオリジナル曲を発表するようになった。
まだまだいる。
神椿なら花譜の後に出てきた理芽やCIELも大好きだし、V.W.Pが武道館に集合したときは思わず飛び跳ねた。
それ以外でも、フォロワー経由でバーチャル音楽フェス「Vmusic」に誘われたりし、バーチャルシーンの深まりにワクワクを感じている。
繰り返すが、こうした「向こう側に人がいる」キャラクターを「推す」時は、細心の注意が必要だと私は思う。
悪口は当然そのまま本人に届くし、相手の人間性や尊厳を無視した創作を行うと、アーティストの友人や家族の心まで傷つけかねない。
それでも、私は彼女たちの存在に、ただ存在してくれてありがとうと言いたいのである。
「キャラクター」を被らなければ存在しなかったであろう歌声たち。
私に「音楽ってこんなに楽しい」を教えてくれてありがとう。
私は気づけば、ボカロPの作曲じゃなくても、どんどん好きなアーティストを探すようになっていた。
文藝天国、秋山黄色、For Tracy Hyde。
「周りが聴いてるか」も「人間か人間じゃないか」も関係ない、「私の好き」ができた。ノンボーカルや海外のアーティストもいい作品を見つけると喜ぶ。
音楽は楽しい。
それから、折角だから本物の「キャラクター」、初音ミクにもお礼を言っておこう。
私の青春を支えてくれてありがとう。
今でもバリバリ現役で面白いコンテンツを発信してくれるたびに、オタクは泣いています。
これからもよろしくお願いします。
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