
これが絶対(常識・当たり前)だという視点を抜け出して 白か黒かを吟味する
これが絶対(常識・当たり前)だという視点を抜け出して 白か黒かを吟味する
今回は物事について考える時にこれが絶対(常識・当たり前)だ、そうであるべきだと思う視点に立つ事がある。しかしそう言う視点に立つ事によって見落としてしまっている部分や、考えが固定化されてしまって深みが欠落してしまう部分があると思ったので記事にしてみたいと思う。
この文章はどうか文の論理だけを追うんじゃなくて、実際自分の心を動かして心の変容する過程を体験して欲しい。正しいとか正しくないとか、白か黒で直ぐに判断するのではなく、それを全部ひっくるめて考え直してみる事の重要性を書いてみます。
物事はどんな時でもどんな場所でも通用する様な絶対なんって事は無いだろうし、絶対と言ってしまうと考えが固定化されてそこから動き出さない。考え方に進展が及ぼさないのである。だから視点を柔軟にみて絶対こうだという逆も考えたり、例外も考えてみたりする事が重要だと感じる。例えば『人を殺してはいけない』という例をだして考えてみよう。人を殺してはいけないそう聞いて皆さんはどう思うだろうか?多分に上記の文章を読んでいるから人を殺してはいけないの例外もあるなと思ったんじゃないかとおもうけど、もちろん例外はある。どこまでその例外が許せるかは人によりけりだとは思うけども、その例外の中で誰もが殺さないといけないと思う事は地球を破滅させるために、今まさに核兵器を使おうとしてる瞬間の相手などの場合は殺さないと地球全体が殺されてしまう。この様に『人を殺してはいけない』の考えが是だとしても例外はあるのである。
もう一つ例を挙げる『人に暴力を振るってはいけない』である。これにも例外はある。上記で書いた暴力版だと思えば人を殺そうとしてきた相手に対して暴力で返すことである。これは正当防衛だから実際には暴力という定義にはならないけども、広義の意味では殴る蹴るなどの暴力である。人に暴力を振るってはいけないを額面通り受け取ってそこから出ない人は多分に広義の意味合い(殴る蹴る)と本来の『乱暴な力・無法な力・不当な腕力』の暴力を無分別に捉えている、そしてそれを分別せず一緒くたにして考えてしまっていると思われる。殴る蹴る(広義の暴力)は人に痛み(精神的にも肉体的にも)を与えるし殴る蹴る(広義の暴力)でも正当化できないとう論理もある。しかし視点が悪い意味合いだけを恣意的に取り入れて、正当化できる殴る蹴るを考慮に入れていないと感じる。例えば先ほど言った様に正当防衛もそうだし、なにか問題を起こした人に対してその相手の振る舞いをみて適切な広義な暴力などは必要だと思われるのだがどうだろうか?相手の振る舞いによって、相手と自分の立ち位置によってどの程度それを発動するのかは人によりけりだし発動しない人もいる(時もある)だろうけど、例えば子供が友達を殴って泣かせたとき、親が子供をみた時に子供の反省度に応じて小突き程度で痛みを与えたり、反省が乏しかったりまたは何度も繰り返ししてしまっていたならば親が本気になって怒って殴る事は重要なんではないだろうか?広義の暴力すらも全否定する人は、もし世界にそういう理想郷を見ていも逆にディストピアになると思う。多かれ少なかれ人は間違いを犯す、その時に正す方法として殴る事があっても良いのでは無いだろうか?もちろん殴らないで穏便に済めば事が足りるけど世界はそんな単純になってはいないと思うのである。そして暴力の本来の意味で言えば殴る事や蹴る事はそれ自体が暴力かというと違う様である。だから最初から一緒くたに考えるべきでは無いと思う。
もう一つ例を挙げる『子供は義務教育を受けるべき』である。今回は常識(当たり前)になってる考えを崩していこうと思う。厳密に言うと(義務教育)ではあるんだけど、考え方は人それぞれで、受けるべきと、時と場合による、少数派(?)で必要ないがある様に思う。今回はいじめにあったり、体の問題を抱えている人に対しての視点で捉える訳ではなく、いじめにも遭ってないし、身体にも問題がないタイプの人に対して義務教育を受けるべきかを考えてみる。いじめに遭ったり身体に問題を抱えている人たちに義務教育を受けるべきだという意見もあるしそれは詰まるところ程度にもよるし、その人の精神性にもよる、ただ無条件で義務教育を受けるべきに立つ事は危険である様に思える。精神的に問題をきたしてしまったりするからである。その線引きは難しくすぐに答えを出せる問題ではないけども少なからず時と場合によるが無難だと思われる。いじめや身体の問題はこの辺にして学校に行けるのに行かないタイプに対して考えてみようと思う。端的に言えばゆたぽんである。社会的な考え方に一石を投じた事で記憶に新しいように考え方も色々(大雑把に分けて3通り)ある様に思える。受けるべき派(常識派)と時と場合による(ゆたぽん的な考え方ならば行かなくておk派またはゆたぽん的な考えなら行かないといけない派・中立左派と中立右派である)または革命的に考えを転覆させる(必要ないと考える)派である。正直この問題は一つの考えに最終的に行き着く問題ではなく、人の数だけ答えがある様に思える。だから全ての立場を考えてみる事である。そして全ての立場からその立場で肯定できる視点を集めたり、その立場に立つ事の危険性を分析してみる事にしたい。まず常識派の受けるべきである。この視点はわかりやすく問題ない身体状態だし精神状態なんだから行くべきだと言う視点である。この視点は義務教育という視点を全面的に受け入れてそこを土台に話を展開する。この視点で肯定できるのは、社会の秩序を守るために当たり前を是認する事である。この当たり前を否定すると次から次へと第二のゆたぽんが生まれてしまう。だから常識を守るべきだし常識を堅持するんだと思われる。常識派は社会の秩序を守る視点が強い。それが常識派のいい点であり、肯定できる視点である。しかし秩序を守るけど視点は常識の範囲しか考えていない様に思える。当たり前やそうあるべきなどでとどまっている。逆に少数派の必要ない派は、革命思想の様に思える。義務教育のあり方を根底から覆し、こう言う生き方でも良いのではないかという視点である。肯定できる(?)視点は社会のあり方に対して新しい風を吹かす事である。確かに義務教育として行かないといけないと感じている人は大勢いるけど、その中にも本当は行きたくない人もいると思うのである。色々なタイプがいてゆたぽんみたいな革命家タイプじゃないけど、天才肌で学校の勉強が面白く感じない人や、勉強はできないけどある一部の部分で特異な才能を有している人など、またゆたぽんの様に革命思想に憧れている人にとっては願ってもない魅力的なスタイルに感じる。しかしこの視点の危険性はその革命思想的な世界観では社会性の獲得が希薄になるのである。個人的に僕の意見を先に言うと中立右派(ゆたぽん的な考えならば学校に行くべき派)の視点に立っている。両極端な視点というのは考えがどっちかに偏りすぎて両極端の視点はどっちも危険だと思われるからである。ただ常識派勢力が必要ないかと言うとそうではなく、そういう視点で世界を満たす人がたくさんいる事によって社会の秩序は守られている事は事実でありこの考えでもいい様に思える。逆に少数派の考えも必要であり、息苦しく当たり前や形式を重んじるだけで面白みのない視点で世界を見渡す視点を少なからず変革させた見方にする事は常識の逆を考えたりする視点も得られるし、常識派だけで世界を満たす事は息苦しく形式主義や形骸化した世界観に落ち着いてしまうからである。要するに常識だけを通用させようとすればするほど面白みのない世界観だけが跋扈する様になってしまうからである。考え方はどっちか極端に振り分けるより、色々な立場視点から考えを吟味する事でどちらかに軸足を傾ける視点に変えて行った方が思考(視点)に深みがある様に感じる。だから僕は中立右派なのである。なせ左派じゃないかと言うと、これは政治にも当てはまるのだが、革命思想やリベラル思想というのは局所合理性(一部分だけ合理的)で支配されている事がほとんどで一見もっともだと思う事でも論理飛躍があり、視点の置き場所が問題のある部分の強引な改善に当たっているけど、その問題のある部分だけは改善できても全体的な調和は保てない事がほとんどだからである。要するに右派の様な保守思想は長年の思考や実践(問題解決をボトムアップ的に高める)の積み重ねで自然淘汰的に洗練されて問題があるけど調和が維持できるような考えに落ち着く事であるけど、リベラルや革命思想は実践に裏打ちされた視点ではなく頭の中で問題を局所合理性で捉えたであろうから大抵は失敗に終わると思われる。保守思想の様な実践の中から自然淘汰的に洗練されてそれを逐次改善する視点が安心安全であると思うしそれが王道だと思われる。
僕たちの持っている知識というのは基本的には直接的に感じとられて得られたものとそれを分析()する帰納法(きのうほう・現実の中からデータを集めそのデータの中から共通する法則を捉える視点・方法)で捉えてる。しかし帰納法は絶対を保証しない。例えば全ての白鳥は白いだったデータが黒いスワンが見つかり考えが改まる事がある。社会的な考えもいろいろなデータを集めてその中から正しさ(法則)を捉えようとしている。そして帰納法(厳密には帰納法ではなくそこに行き着くための分析的思考)は最初は大雑把に共通する視点を捉えそこから修正なりしながら精度や本質を捉え直す事が普通である。それは最初は少数から法則性を見出し、それを全体に推し広げる中で(修正しながら)精度や本質を高めていく感じである。最初から常識に染まりそこから出ないのも危険であるだろうけど、自分の持ってる知識や考えを帰納法の様に改める視点を持つ事も重要なんではないだろうか?たとえば例外(違う見解)が見つかった事によって、自分の最初から持っている考えが根本から改まらなかったとしても、例外(違う見解)を見つける事によって少なからず考え方が改まって(修正して)いる。または違う見解(例外)を見つかった事が逆に根本(自説)が間違いだと気付き考えが改まる(修正する)事がある。この様に自分の持ってる考えを白か黒か(正しいか正しくないか)で直ぐに判断せず考えてる事を深める視点に立つ事が自分にとっても社会にとってもいい様に思える。そして絶対(どんな時どんな場所でも通用する)という事はなくて、あるとしたら相対的な絶対なんじゃないだろうか?この場面、この時ならこの論理が通用するみたいな事です。これも吟味すると危うさがあるけども蓋然性の高さ(科学の場面で特に人文学ではそれなりに)は保証できる様に思える。そして知識や考えは厳密には絶対や相対的な絶対などないのだから、色々な場面や例外を想像したり実際に出くわす事で考え方を改める様にした方がいいと思う。そしてこういう視点に立つ事によって考え方に(変わらなかったとしても)深みが与えられると思う。
また直接的に与えられた情報は常に正しさを捉えられるかと言うとそうではない。例えばコンビの芸人の身長で考えてみる。コンビで並んでいる身長差やその芸人の風貌で多分このぐらいの身長だと推察するけど実際に会ってみると、大きかった(小さかった)と思う事はある。だから直接的に与えられた情報を色々な角度から見渡し、実際に会うことによって考えを正す視点も重要である。一面的な視点でとどめず色々な視点から眺めて正しさを捉え直す視点である。この視点は誰もがこうだと思っている視点にも、もしかすると勘違いしている視点があるかもしれない事が示唆される。例えば昔の時代には天動説が支配的だった。地動説は異端で社会的に認められない思想だった。だから僕たちの持ってる視点を常識や当たり前だで片付けず一旦もしこれがそうなら、こういう下支えが機能してないとうまく説明できないなどを考えたり実証(実験)する視点を自分に課すことも大切な様に思える。僕たちは地動説を信望するようになったけど、世間的な見方では太陽は東から昇り西へ落ちていくという視点で見ている。実際は地球が自転している事でそう見られてるのにである。
体系的な知識を伝えれる事は大切だと思うけども、僕の文章は全体を見渡して体系的に伝える事をそこまで重要視していない。だから体系(論理的)に漏れる事を言ったり、あの時こう言っていたのに、今はこう言っている(矛盾している)と思う文章も散見されるかもしれない。それには僕なりの視点があり、体系も重要だけど、それ以上に自分の頭で考えてその時に思った事を文章化する視点の方を重視するからである。体系的に伝えられたらいいけども、体系は全体を眺めてその論理に整合性を見出して全体を論理的に記述する視点だと思われるけども、僕たちの持ってる体系は常に不完全なんじゃないかと思うのです。これを有機的な身体の構造で例えるとわかりやすいように思える。身体の構造は胃・腸・脳・肺・手・足などなど色々な部位があるが、それが有機的(多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっている事)につながって全体を捉えている。体系はこの全体的な機能を密接に関連させて全体に整合性が保てる範囲の中で記述する事が体系として機能するように思うのだけども、1つ1つの部位の機能を全て解明しているわけではない。基本的な部分部分の構造や仕組みを紐解いてそれを組み立てて全体に納得いくように捉えているのである。部分の構造や仕組みに対して新しい視点や新しい機能を発見する事で全体(体系)自体も考えが改まる事がある。全体(体系)を記述する中で整合性を保つために部分部分の全体を再度点検して更にメタレベルの視点に記述し直すこともある。それは終わりのない視点なんじゃないかと思われるのである。だから体系的に語れればいいが、体系は常に変化の過程にある物であり、閉じた(静止した)体系にとどまる事はその閉じた範囲の中では辻褄を合わせられるけど、それが本当に正しさを保証する訳ではないのである。だけど体系的(全体を整合的に)に伝える事は大切だし、そういう視点も必要だけど、体系を崩す視点、新しい視点も考えたりする事も大切なように思える。その崩す視点や新しい視点はただ単に想像の範囲で捉え直すのではなく、今ある体系も参考にしつつ、その視点を当たり前や常識だと捉えず再度点検(色々な角度からみて)する事である。もしこの視点が正しければ、こういう下支えがあるはずだという視点を捉え直す事が大切であり、もしその下支えが崩れるならば考えを改めるべきである。下支えは最初常識的(直接的に対応するよう)な視点から初めて()もしそれが正しさを支えているならば、消去法でその正しさ以外の見方をある程度は排除する事ができる。そしてその正しさの中でまた細分化させて細分化した視点も対応できるかをチェックするのである。またこうとも言える。下支えの根本が間違っているパターンもある。誰もが当たり前や常識だと思っている視点が実際は間違いだった時である。これは天動説が正しいと言われていたけど実際は地動説だった時のようなな場合である。だから下支えが直接的に対応されてそれっぽく(常識・当たり前っぽく)感じるパターンで留めるだけで済まさず、皆んなが当たり前(下支えがある)だと思ってる事にも考えを巡らす(反対の考え・背後の論理を考える)事である。こういう視点を捉えるのはある意味で平凡でなく思考の柔軟性が必要だと思われる。
僕が言いたいのは体系的に考えをまとめる事は大切だけど、体系に絡み取られて自由な発想や例外的な発見を見過ごしてしまうぐらいなら体系に重視する事はそこまで重要じゃないと思うんです。文章を書いてる時書きながら思考を動かして考えがアップデートする事があると思う。その時体系的に捉えてそれに当てはめる思考もするにはするが、思考を動かしている時は書こうとする対象を深める視点に立脚している事がほとんどである。体系的に辻褄が合うというよりその考えの進展に力を注いでいる。それに体系は絶対を保証しないから、今ある体系からはみ出ずその体系にとどまる思考より、その時思った事を記述する思考の方がぼくはすきなのである。体系的に記述出来ればいいに越した事はないのはわかる。でも体系はいつになっても完璧ではなく、常に修正(部分も全体も)を余儀なくされる。だから体系にこだわりすぎないで自由に考える事に力を注ぐのである。あの時ああ言ったのに、今なぜこう言うのかなど思うこともあるだろうけど、それは正直申し訳ないけど、誰もが完璧な体系の中から論理を展開できないように、チグハグとした考えの羅列で留まるのが関の山なんじゃないかと思う。あの時ああ言ってたけど、今違うパターンの時、自分の中で思考の進展があり考えが改まっている。またはあの時ああ言ってる視点を深めてこういう視点も考えられるんじゃ無いかと再定義したりしている。その時逐一過去と今で整合性を保ち続けてるかと言えばそうではない。読む人にとっては思考が混乱するけども、自由に考え深める視点に立つ時に過去の考えを常に正しいと思いつつ考えを深めるだけではなくて修正や根本から変革する視点に立つ事も普通であり、そういう視点に立脚した方がいいと思う。
そして体系と言うのは心の中(思考の場)で色々な考えを(体験を)取り入れつつ、その中で理解された見方が下支え(規定・土台に)されて体系を支えられていると思う。要するに今までの体験から考えから得られて理解が及んだ(暗黙知や理解が及ばず混沌としたことも含めて)バラバラな事を思考の場で統合されていて体系らしい自分なりの視点が思考の場に与えられると思われる。それは複数の川(考えや経験)が一つにまとまった場(思考の場に生まれ)それを体系的(分析的)に問題を処理(川がもう一度分枝するもしくは大きな川の様に広がる思考である)する様な感じである。色々な視点(複数の川)を持っていることに越した事はなく、色々な視点を捉えるのは際限がないので体系(思考の場)は常に不完全さをおびる。僕が重要視してるのは思考の場に至る複数の川を細分化()したり、その川のイメージを大きく広げたりする事が、結果的に体系を深める一因になるのでは無いかと思うのである。思考の場は不完全な体系に留まるのが常でありその体系に固執した世界で世界を紐解く視点(その世界観で整合性がある)より、自由に考え、批判的に考え細分化して考え、その考えを大きく深める考えで考える方が結果的に体系性のブラッシュアップに寄与するのでは無いだろうか?だから言いたいのである。閉じた体系(論理的整合性)の中で安住するより批判的に自由に考えて、間違っててもいいので考えを押し広げる方が得る物は多くないか?僕の文章を読んでおかしいと思うところもあるかもしれない。でもそれでも間違いに気づく事は体系の(思考の場を)修正をしている事であり、間違いは全てを無に帰す訳ではなく、その間違いに気づくことで思考の場にも変化を及ばしている。だから正しさ(体系性)に固執する視点も僕は考えてるけど、そこに執着せず自由に批判的に考えて文章化しています。この文章自体も体系的にまとまってるとは言えないし、無理に体系的にまとめることは、人間の頭脳では出来ない事なんじゃ無いかと思う。なぜなら人間は全てを俯瞰してそれを理路整然と当てはめる視点は出来ないからである。自分の俯瞰(多種多様(今まで得てきた考えや体験)な川が一つにまとまる統合場で)できる範囲の中から整合性が保たれた意見を探る事をし、それを常に深め続ける(改善し続ける)ぐらいなんじゃないだろうか?人間の頭脳的に整合性が保たれず考え方に矛盾を抱えながら意見を言う事は誰にでもありうるし、そうなってしまう。ただその矛盾した意見は本質を捉える視点やその問題を細分化して分ける事で回避できる要素が隠されている様に思える。また矛盾は客観には無いけども思考の場では常に見え隠れしている様に思える。感性的に与えられた物は全てを一挙に把握する事ができず一面を言い当てている視点に留まる。例えば横から三角形をみたら三角形だと思うけども上から見たらピラミットの四角錐や三角錐だったという場面である。感性的に得られた材料は正しさを直では保証しない事が多い。三角形が四角錐だったというのは三角形の立場から見れば四角錐は矛盾であり、でも実際は多角的に見ると四角錐が正しくて矛盾では無い。思考の上ではその様に全体を直で感じ取る事ができず矛盾しているような視点に陥る事が多々ある。だから視点を一面的に留まるだけで済まさず多角的に見たり細分化して捉え直す事が重要だと思う。そしてその様に多角的に考えたり細分化して捉えたりする事で矛盾()の抜け道が見つかるのである。常識的な考えや当たり前な考えもそれ自体で矛盾が全く無いかと言うとそうでは無い。例外(矛盾)はあるのでありそこを捉える視点を持つ事で結果的に常識的な考えや当たり前な考えも深まる。人間の思考は最初は2面的思考から始める事が多い、正しいか正しくないか?好きか嫌いか?などである。最初に肯定的(否定的)主張を軸足にしてなぜそれが正しいのか、そして正しく無いのかを考える。ただこの視線だけで終わらせてしまうと常識的な視点だけで留まってしまう人も多いと思う。多角的視点も大切である。色々な角度から視点から正しさを捉え直し例外(矛盾)をきたす場面を捉えるのである。考えが根本から変わらなかったとしても色々な視点を捉えている事により思考の場では高次な視点を獲得している。矛盾(例外)が明るみになる事でその物事の本質的な視点に近づいている事もあるだろうし、その物事の本質を捉えれる事でこの場面ではこうあるべきだけど、こういう例外ではこうした方がいいのでは無いだろうかと適切に判断ができる。また考え方が人それぞれで肯定的主張と否定的主張が分かれる場合がある。こういう場面でもやはり2面的思考だけで終わらせず、2面的思考でも迷うかもしれないけども多角的思考も大切にするべきである。肯定的意見だけを支援したり否定的意見だけを支援する2面的思考でもなく、2面的にどっちも考えてみるだけではなく、色々な角度から視点から捉え直しその問題の本質を浮かび上げるのである。どっちが正しいか答えが分かれたとしても深く考えている人の意見は、その人の中に哲学がある場合こういう性格でこういう立ち位置に自分を置いているならその意見でも肯定できる場合もある。真逆な事を言っているのに変に馬が合う様な感じである。そして正しさは2面的思考だけでは無く多角的思考を駆使しつつ、論証的思考(思考の上で問題ない)で論理を紡ぎそれが正しさを支えてるかを点検する事が大切である。究極のところ実証的思考(実際に対応できてるか)が1番大切であるけども、僕たちの持ってる知識は宙ぶらりんな知識に依拠してる事が殆どで、専門家じゃないと実証できない様な知識を一旦受け入れて、その知識を正しいとみなして実証している事が殆どである。ただ知識にはこの様に宙ぶらりんな知識が多いけど、それを現実の中でこの知識が正しければ、こうなるだろうという実験検証を自分に課せば、少なくとも少しぐらいは地に足がつくと思われる。1番いいのは実験検証に足を運べる事だけども現実には難しい。
初めてnoteに投稿してみる。これはアメーバブログで投稿した記事です。アメーバブログの方は全く宣伝をしてこず見られる機会が少なかったのでnoteの方でもシェアしてみてみる。この記事の内容が説明が足りず置いてけぼりになるかもしれないけどもアメブロの中では説明が足りない部分に対して少し説明を施している部分はあると思います。ですのでチェックしていただけると幸いです。ブログはプロフィールから飛べます。