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障害を個性や才能と捉える事への強い違和感

 世間は、障害を個性や才能に置き換える人が少なくはない。

 だが、私はそのような風潮に対して疑問を感じる。

    何も分かってない健常者が無責任に、『障害を個性だと思うといいよ。』『発達障害なんだね。じゃあ、君は何かの才能があるんだね。』『発達障害者は知力学力が高い』『何の秀でたものがない人は、発達障害者じゃない。』アインシュタインや、ベートーヴェン、モーツァルトなどの面々を挙げられると、こちらとしては、『えっ?』となる。

現状を何も分かってないと思う。

彼らは、障害がないから好き放題言えるのだ。

障害は、障害でしかない。

障害を個性や才能として捉える分だけ、その言葉に苦しんでいる無才無能な当事者がいることを知るべきだと思うのだ。

下の記事の補足になるが、私は何の並以上の得意分野がない発達当事者だ。

 私はかつて、障害と才能を信じて自分の得意分野を探し好きな事にも熱中した。しかし、勉強は平均以下。その他、絵や漫画、小説は、何をどう頑張っても世間では認められるものではなかった。注目はされなかった。知能検査を受けても、平均以上の分野は何もなく苦手な分野ばかりが目立つ結果であった。私は、絶望した。

 世間で注目され、もてはやされるのは何かに秀でた障害者だ。メディアで取り上げられるのはそういう障害者ばかりで、私はうんざりしてしまう。

    私は、『発達障害者なのに、凡人な私は一体、何なのだろう?』という苦しみから、『そうか…私は凡人なんだ』と自分の能力を受け入れるまで、時間を要した。


 そして、私は、こうも思った。
  
 もし、仮に障害を個性や才能だと言うのなら、いじめられ馬鹿にされるのも個性や才能になのだろうか?人からパワハラモラハラ受けた人、障害を苦に自殺した人だっていた。
人間社会に適応困難な人も多い。
夢を諦めた人も少なくはないだろう。
少数派・個性に厳しく押し潰す国で、個性・才能だなんて虫唾が良過ぎはしないだろうか?

 障害による困り事が多い、何処いても不快感与える、迷惑かける、お荷物、誰からも理解されない、孤独、職を転々とする。

ー果たして、これらも個性や才能なのだろうか?

 私の子供時代は、苦しみの連続だった。
私は先生やクラスの子から嫌われ、怒られたり虐めや悪口、馬鹿にされたり劣等感とで認知が歪んだ。発達障害のある感じの子が無理やり定型の枠に当てはめられて、ストレス半端なかった。境界知能のある感じの子も長年虐めに苦しみ不登校になった事もあった。対人恐怖が強くなり高校の頃は、まともにクラスメイトと話せずひとりでいる事が多かった。悪口も言われた。

 大学では環境適応に苦しみ、仕事では鈍臭く仏頂面で上司や客から嫌われた。
 
これが、私の経験してきたトラウマだ。

 私は、凡人以下の発達障害者だ。
発達障害者に秀でたもの、才能を求めるのはやめてほしい。

 それは、傷口に塩を刷り込まれる思いだ。

 多数の発達障害者は、平均以下の収入で無理して環境に適応し、誰からも理解されずに苦しみながら生きている。中にはトラウマやフラッシュバックに苦しむ人だって少なくはないだろう。

 これが、現実なのだ。

 私は、現在、障害者雇用で身体に悲鳴を言わせながらひたすら肉体労働をしている。

そして、年々疲れやすさや体調不良、メンタルの不安定さに悩まされている。最近は、聴覚過敏が強くなった。

現在は、凡人な自分を受容しつつある。
しかし、そこまでいくにはかなりの年月を要した。

私は、職場でこう思いながら仕事している。

何の取り柄がない自分が悔しい。
何やってもうまくいかない自分が悔しい。
単純作業しか出来ない自分が悔しい。
何の能力がない平均以下の自分が悔しい。

私は、日々そう思いながら生きている。

だから、凡人な障害者のことも受け入れて見てほしい。

そればかり願ってやまない。

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。m(_ _)m


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