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イラハイ 佐藤哲也

この一冊がいかに優れた国語(日本という国の言語を使った文章の構成)によって綴られているものであるかを説明する力を私は持ち合わせていない。
それを悔しいとは思わない。なぜなら私はここに綴られた内容の3割も読解出来てはいないだろうからだ。
正しいと確信を持って言えることは、例えば広辞苑(これは必ずしも広辞苑でなくとも、あらゆる辞書と呼ばれる分厚い書物に頼る)に載っている単語の6割7割を著者が自由に使える能力を身につけているとしたら、私が1割にも満たないその能力の乏しさによって理解を拒まれているという事実だけである。
しかしながら、いつまで経っても始まらない主人公の物語を訝りつつも着実に前進する架空の一国の革命の起こりに目を流し続けると架空だと思えなくなってくるのだが、章の終わりには必ず、お前の役割はそちらからページを捲ることだけだ、と肩を押される。
物語の終着に特別なことはない。なぜなら初めから決定され、提示され、準備されていたからに他ならない。ことさら感動することもなくもちろん動揺も爽快感もない。初めから約束された愛を読むだけである。
ページをめくる役目を終えると、そのままスルリと解説に続けて目を流す。一行読めばそれが文庫本の厚みを増やすだけの価値があるかどうかの判断がつく。そこで私は架空と現実の境目を見失う。ここにいる解説者が記す世界と、私が今居る世界は同じだろうか。かろうじて感じ得る違和感の源が著者か解説者か判然としない。架空であるはずの物語のスピンオフ?が正に私の眼下にある。あるのだろうか?
もしやイラハイは飛行機で行けるのではなかろうか?

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