分かりにくい女、そして分かりやすい男【9分小説】
「ここでいいんだよね?」
ハンドルを握った女が訊ねてきて、ぼくは「うん」と肯いた。車がハザードランプを点滅させて道路の脇に停まる。
「ありがとう」
そう言って助手席から車を降り、「じゃ、また」と女に声をかけドアを閉めると、車は人気のない夜道を忍ぶようにして走り去って行った。ぼんやりと光るテールランプを見つめながら、ひとつ大きな息をつく。体は疲れているが、心は満たされている。ただし、決して清々しいものではない。湧きあがる罪悪感を影のように引きずり、自宅のあるタワーマンションをやや遠めに見据えながらぼちぼちと歩き始めた。
自宅から離れた人気のない場所で降ろしてもらったのは、もちろん誰かに見られたら困るからである。仕事が終わってから少しだけ時間を作り、ぼくは女との密会に勤しんでいた。毎週月曜日と木曜日は、決まってこのルートで家路につく。
女とはマッチングアプリを通じて知り合い、お互い配偶者がいることを知った上で顔を合わせている。二人の目的はとてもシンプルなもので、湧き起こる性欲を発散させること。そこに愛を育むような感情は含まれておらず、そのためだけに会うということで一致していた。
お互い同じ湾岸エリアで近い場所に居を構えているが、この近辺には密会にふさわしいラブホテルがなかった。どこで会おうかと思案していたところ、女は車で会おうと提案してきた。車は女の方で出す。それも痕跡を残さないために所有車ではなくカーシェアを利用して。つまり、カーシェアした車をラブホテル代りにするというわけである。
密会の流れとしては、仕事を終えた後に最寄り駅の一つ手前で降りて、人目のつかない場所まで歩いていくと女の待つ車が停まっている。不審な動きをしないよう自然に且つ速やかに助手席に乗りこみ、車は湾岸通りを抜けて倉庫街へと向かう。後ろの席からトイプードルの息づかいが聞こえるのは、女が亭主に犬の散歩と言って抜け出してきているからだ。
倉庫街の一角に車を停めてエンジンを切ると辺りは静寂に包まれる。人や車の行き交いはなく、人目を忍ぶには格好の場所。すぐさま色ごとを始めると、まぐわう息づかいと時おりトイプードルの鳴き声が車内に広がる。この犬の存在はなんともいただけない。人でないとは言え、背信行為を監視されている気分になる。このことを指摘して営みの最中だけ外に出してみるも、犬は狂ったように吠えに吠えまくった。いくら人気がない場所でもさすがに犬の鳴き声が響き続ければ、誰かがどこかで聞きつけかねない。結局、情事の一部始終を見守っていただくしかないのである。
目的を果たし終えたらすぐに車を出して、マンション近くのこの通りに降ろしてもらう。車に乗ってから降りるまで四、五十分の非常に淡白な密会だ。
この淡白さこそがこの密会を長続きさせている。お互いの連絡も必要最低限しかしない。通信手段はLINEのみ。当日にピックアップしてもらう時間と場所の確認だけで、誤解を招くような言葉や絵文字もいっさい使わない。確認したらトークルームを削除し、証拠を隠滅する。
「カーシェアで人目のない場所に移動」「時短で済む」「通信管理の徹底」。どちらかがこの行為に飽きさえしなければ、永遠にできるほど完璧な密会だと思えた。
家に帰れば夕飯の支度をした妻が待っており、先に食事を終えた二人の娘たちもテレビを見ているか風呂に入っているかして父親の帰りを待っているだろう。幸せな家庭は築けているとは思う。妻は晩酌を共にしてくれるし、コミュニケーションだってよく取る。子供にも恵まれて、そこそこ裕福な暮らしも叶っている。ただ全く不満がないと言えば、やはり人並みの悩みは抱えているのだ。
妻は望んだ分だけ子供を産むと、夫婦の営みに消極的になってしまった。
性行為の不一致は、精力旺盛な者にとっては深刻な問題である。なぜなら、消極的な妻に無理を言ってしぶしぶ応じられたところで、それは夫婦にとって良いスキンシップとは言えない。相手を想いやって控えてやる優しさは、己の本能を押さえつける行為でもある。
それともう一つ。妻は非常に几帳面で正義感が強く、怠けた行いや道理に合わない行為を許さないところがある。
例えば、トイレで便座を上げてまわりに飛び散った尿をそのままにしておいたりすると、そのことに気づいた妻は「あーあ、便器のまわりを汚す人って、なんで自分で拭かないんだろうね」とあてつけるように呟き、「そういう人って掃除する人の身になって考えてないよね」と嘆かわしそうに続け、「自分の始末もつけられないなんて、ただ甘えてるだけだと思うんだよな」と宙に放つように持論を展開し、言葉の矛先だけ向けて執拗に責めてくるのである。うちは男が一人だけなのでぼくがやったことは明快である。こうなってしまったらとにかく早めに謝らなければいけない。さもなければ妻にその処理をさせた罰として、三食のうちのいずれかを用意してもらえなくなる。シラを切ったら切った分だけ罰も重くなり、一食だけでなく二食、三食抜きにされる。そんな時はやむなく外で済ませるのだが、管理の厳しい小遣い制なので手持ちがない時にその罰が下されると大変である。飯抜きは古典的だがかなりきつい罰なのだ。
これはかなり意図して責められるパターンだが、妻が意図せずに何げない会話でほのめかしてくる場合もある。
妻がご近所さんから話題沸騰中の高級プリンを家族の分だけいただいてきたことがある。それぞれ一人一個ずつという約束でぼくと娘たちはすぐに食べたのだが、妻の分だけはずっと冷蔵庫に残されていた。賞味期限も近づいてきたし、もう食べないだろうと思ってぼくはそのプリンをありがたく胃の中に収めてしまった。
それから数日後、妻がママ友との会話で大事に取っておいたスイーツを旦那に食べられて愚痴をこぼしていたことを話題にした。その時も「人が取っておいたものを勝手に食べるってどういう神経してるんだろうね」と言い、「食べるにしても断り入れるのがふつうじゃない?」と同意を求め、「ただ謝るだけでフォローもしないとか最悪」と詰るのである。これはもしかして勝手にプリンを食べてしまったことを責められているのではないかと思い「ごめん」と謝ると、妻はあっけらかんとした声で「なにが?」と返してきたのである。「いや……残ってたプリンを食べちゃったことを責められてるのかと思って……」そう狼狽しながらプリンのことを打ち明けると、「あれ、あなただったのね! 取っておいたのに!」と、妻の記憶を呼び起こしてしまったのだ。謝らなければ何ごともなく終わる会話だったのだが、食べ物の恨みは怖く、後日なけなしの小遣いをはたいて高級スイーツの埋め合わせをするハメになった。
家のことをきちんとしてくれるのはありがたいのだが、少々その監視やら懲罰がいき過ぎるきらいがあり、息苦しさを感じることもあるのだった。
普段の会社帰りを装って家に到着する。夕食を摂り、風呂に入って、一日を労う晩酌が始まる。子供たちは眠り、妻も一日の家事労働を終えて、缶ビールを手に、夫婦水入らずの時間がやってくる。
晩酌タイムは主に妻の方から話が始まる。子供のことやママ友との間で話題になったこと、時には懐かしい旧友のことで会話が進むことが多い。
「今日ランチ会でね、すごいこと聞いちゃったんだけど……」
と、妻はママ友たちによる集いでの話題を喋り始めた。
「Aちゃんのお父さん、不倫してたんだって」
『不倫』という言葉を聞いて反射的に動きが止まった。瞼は瞬きを忘れ、心臓は跳ねるようにして鼓動を高めていく。ひとつ胸を打つたびに体温が上がっていくように感じられ、耳が熱くなる。頭の中はすーっと白くなっていき、ぼくはなにも考えられなくなった。
「へぇ、そうなんだ」
つい平静を装おうとして取り繕ったような返事になってしまった。急激に喉の渇きを感じ、手元の缶ビールを勢いよく流しこむ。妻は特に不審がる様子もなくそのまま話を続けた。
「それがすごいんだよ、その不倫してる場所が。カーシェアで借りた車なんだって。それで人のいない倉庫の方に行ってするの。ありえなくない?」
妻が情感豊かに喋り上げ、同意を求めてくる。ぼくの胸を打つ鼓動は大太鼓を叩いているのではないかというほど強くて激しく、体全体がビクンビクンと揺れているような気さえする。あまりにも激しい鼓動を抑えこむことができず口が半開きになり呆然としてきた。
「す、すごいね」
「ありえないよね。それでそれだけやって終わりなんだって。一時間もかかってないの。っていうか、カーシェアでそんなことやらなくない、ふつう。色んな人が使うんだよ」
もう全身が痺れて寒気がしてきた。
これは本当に他人の話なのだろうか。それとも完全にバレてしまっているのを他人の話に見せかけて詰っているのか。なにしろ、他人の話にしては酷似している。これは完全にバレたと言っていいかもしれない。
いったいどこでバレたのだ? 女と妻がどこかで繋がっていたのか。いや、それにしたって女も不倫をしている立場なのだから自ら話すわけがない。それならば——犬か? あの犬から情報が洩れているのではないか。実は喋れる犬だったとか、犬の思考を言語化できる何か特殊な機械を使ったとか。
そんなことより、これは早く謝らなければ大変なことになってしまう。だが謝るにしても今までとは罪のレベルが違いすぎる。どんな仕打ちを受けるか想像しただけでも恐ろしい。生殺しにされるのではなかろうか。それならこのまましらばくれるか。それも無理がある。これだけ正確に言い当てられているのだ。しらばくれ続けて火に油を注げば……それも地獄。
ぼくはこの場の切りぬける方法を見出せず、血の気が引いていくのを感じた。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
妻が覗きこむようにして訊ねてくる。
どういう意味で言っているのか。本当に心配しているのか、それとも追いつめられた者を嬲っているのか。分からない。妻の心が読めない。もうこれは早く謝ってしまう方がいい。腹をくくるしかない。でも、万が一知らなかったらどうする。「なにが?」なんて言われたら。素直に「ぼくも同じことをやってました」って打ち明けるのか。できるわけがない。なぜ知らないでいいことをわざわざ告白するのだ。ダメだ……分からない。
「ごめんなさい」
心の整理をつけられないまま、ついぞ口から謝罪の言葉をこぼしてしまった。そのまま瞼をきつく閉じ、ゆっくりと頭を垂れる。自分のしでかした愚かな過ちを、その罪を認めて罰を受けるしかない。もうそれは覚悟を決めるしかないのだ。
ぼくはじっと暗闇の中で妻が発する言葉を待った。
「なにが?」
「そっちか!」
妻のあっけらかんとした返事に心の声がそのまま出てしまった。
「そっちかって、なに?」
「いや、あの、知らなかった方か……と思って」
「知らなかったって、なにを?」
「んーと、不倫する人の気持ち?」
まずい。頭をフル回転させて出口を探しても、こんな言い方をすれば不倫を肯定してしまっているようではないか。
「……はい? わかるわけないでしょ。え、あなた不倫する人の気持ちが分かるの?」
「いや! わかんない、全然わかんないね」
とにかくこうなったら全力で妻の言うことにすり寄るしかない。バレていないことが分かったのだ。ここは妻の意見に全肯定をしてなにがなんでも隠し通す。それしかない。
「だって、奥さんがいて子供もいるんだよ。なんで他の女の人とそんなことできるの」
「その通り。まったく同意見。わかんないわー、そんなことを考える男」
「それに車でするって。しかもカーシェアでしょ。ちょっと信じらんない。気持ち悪くない?」
「気持ち悪いね。そらぁ、もう気持ち悪いよ。うん。自分たちのことしか考えてないよね。他の利用者のことを考えてない」
自分の心を思いきり刃で刺して血を吐き出しそうな気分だが、耐えるしかない。ここは耐え忍ぶしかない。
「しかも、飼い犬も乗せてるんだって」
「犬! ありえないな」
「かわいそうだよね、そんなもん見せられちゃって」
「いやぁ、ホント、人間のクズだね。クズ」
「わたしだったら離婚しちゃうなー、そんな旦那だったら」
「当然でしょ。そんなヤツと一緒にいたってロクなことないよ」
「そう……じゃ」
そう言って妻は立ち上がり、戸棚の方へと向かった。一枚の紙を取り出してぼくの目の前にそれを差し出した。それは離婚届だった。
「えっと……これはどういう……?」
「そんなヤツといたってロクなことないんでしょ。じゃ、ここにサインをお願いします」
「ちょっと、なんのこと言ってるのかわからないなー」
「とぼけたってダメ。月曜日と木曜日に会ってるんでしょ。帰ってきたときに女の匂いをまきちらして」
ぼくは思わず自分の体を鼻にあてて嗅いでみる。それを見た妻はすかさず言った。
「あなたって分かりやすいよね。思ってること全部出ちゃってるもん。後ろめたいことがあるとすぐ挙動不審になるし。今の話だって目を白黒させすぎだからね。もうちょっと隠した方がいいよ」
「……全部、知ってたのか? どこから聞きつけたんだ?」
「聞きつけた? 全部あなたから聞いたこと。あなた自身がその口で言ってるの」
「ぼくが?」
ぼくは意味が分からず眉根をひそめた。記憶を辿っても、そんな隠し事を妻の前で口にしたことなど思い当たるわけがない。ぼくがそうしてピンとこないでいると、妻は小さな録音機を取り出した。
「あなたの部屋に置いといたの。あなたの癖でいう独り言でなにか情報を掴めないかってね。予想以上に喋っててびっくりしちゃった」
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