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おとうと【6分小説】《ショートショート》
陽太が今年も帰ってきた。
陽太はいつも、お盆になると帰ってくる。夕夏もそれに合わせて、必ずお盆休みを取っていた。八月の十三日から十六日までの四日間。夕夏にとっては何にも代えがたい弟と共に過ごす時間なのである。
夕夏が自分の部屋に招き入れると、陽太はリビングを見るなり思わず呟いた。
「うわ、またや」
もはや驚きもせず呆れた表情を浮かべている。
1LDKの間取りをした部屋のリビングは、足の踏み場がないほどに物が散乱していた。脱ぎ散らかされた衣類、無秩序に放り出された雑誌や書類、使われているのかどうかも分からない化粧品の数々。床だけでなく、ソファやテーブルにまで及んでいる。
とっさに言い訳がましく夕夏は答えた。
「忙しいんやて。ま、ま、ゆっくりしぃや」
「いや、できるか」
陽太はやれやれと言った感じで、足元に落ちている服をつまみ上げ、片付け始めた。
フリーランスのライターをしている夕夏にとって、自宅は職場でもある。日々締め切りに追われて大変なのは事実だが、これだけ散らかっているのは無精な性格のせいでもあった。
訪問客を迎えるのに向かないこの部屋に陽太が帰ってくるのは、帰る実家がなかったからである。両親は他界し、住んでいた家は売ってしまった。ただ夕夏はどうしても地元である大垣から離れることができず、マンションを借りて一人住まいをしていたのだった。
陽太が片付け名人だと知ったのは帰ってくるようになってからだ。小さい頃は勉強が苦手で、運動も不得意。人と接することも好まず、一人で本を読むのが一番気楽だという弟に、そんな能力があるとは思いもしなかった。
片付けが終わる頃には日が傾き、空にはあかね空が広がっていた。ヒグラシやツクツクボウシの鳴声が夏の夕刻を告げていた。
陽太はカウンターキッチンに入って、今度は夕食の準備に取り掛かった。買いこんだ食材を慣れた手つきで刻んでいく。今晩は夏野菜をふんだんに入れたカレーライスを作るらしい。
陽太は料理も人並みにできる。本来なら自分がキッチンに立つべきだろうと思うのだが、陽太の方が手早く作ってしまうのですっかり任せきりになっている。主夫をやらせたら一人前の働きができるのではなかろうかと、夕夏は思った。
テレビをつけると、高校野球の試合が映し出された。第四試合、大垣日大高校が岐阜県代表として出場し、ちょうどプレイボールが宣告される瞬間だった。
カレーライスが出来上がり、久しぶりに味わう家庭の味に舌鼓を打つ。ビールで喉を鳴らし、野球観戦に熱狂する。ありきたりな日常だが、夕夏はこの時間がこの上ない幸福だった。
翌朝、目が覚めて寝室を出ると、リビングのソファで陽太はコーヒーを淹れて本を読んでいた。
「おはようさん」
「おはようさん……もう十時過ぎやけどね」
頭が重く、ぼんやりしている。
昨夜の高校野球は乱打戦となり、シーソーゲームの白熱した展開になった。試合は延長戦にまでもつれ、打ち合いの末、大垣日大高校が見事に勝利を飾ったのであった。夕夏はその熱戦に興奮し、勢いにまかせて缶ビールをいくつも空けてしまったのだ。
夕夏は、まだ眠り足りないといった具合で、陽太の隣にあったソファクッションを抱えて、肘掛にもたれかかった。
「コーヒー淹れよか?」
「うん」
かろうじて聞きとった声に力なく返事をすると、陽太は立ち上がり、その反動でソファが揺れた。
久しぶりに夢を見た。そこは、むかし家族で住んでいた家の庭だった。母が植えたのだろうか、四本のひまわりが顔を揃えて青空を見上げていた。夢の中の夕夏はまだ幼い。隣にいる母親に、背の高い順に一本一本指さして、「これがお父さん、これがお母さん」と伝えていた。一番背が低いのは陽太だった。
陽太にはいつ身長を抜かれたんだっけと、徐々に頭が覚醒していく中で、夕夏はふと思った。キッチンに目を向けると、コーヒーを淹れている陽太の頭が少しだけ壁に隠れている。自分と一緒に歳を重ねている陽太。夢の中の母は記憶したままで時が止まっているが、もしかしたらあの世でも歳を重ねているのかもしれないと、陽太を見ながらそんなことを考えた。
コーヒーを淹れたカップを持ってキッチンを出てくる陽太に向かって、夕夏は言った。
「なあ。ひまわり畑、見に行かん?」
環状大垣線を南下していくと街の風景は薄れ、次第に畑が一面に広がる景色へと移っていった。空は青々として晴れ渡り、日射しの強さが畑の緑を際立たせている。やがて遠くの方でびっしりと黄色く咲き誇ったひまわり畑が見えてきた。
夕夏はハンドルを臨時駐車場の方へと回す。車を停め、受付のある入場口まで農道を少し歩いた。
「誰かとここに来るの初めてやわ」
「そうなんや。彼氏とかおれへんの?」
「おらん」
「そっか。モテへんのやな」
「ちゃうわ。ええ人がおらんだけや」
夕夏はムキになって答えた。
入場口のテントをくぐると、受付へと向かった。
「お一人様ですね。協力金二五〇円、お願いします」
受付の女性は言った。夕夏はほんの少しだけ陽太の方へ目配せをすると、一人分の協力金を出して渡した。
「はい、ありがとうございます。それではこちらのバッジをどうぞ。これは見せて頂ければ開催期間中は何度でもご覧になれますので、どうぞごゆっくりご覧ください」
そう説明を受け、缶バッジを受け取った。
会場はまるで広大な黄色い海に浸かっているようだった。多くの人が観覧しているが、騒がしさは全くなく、静寂に包まれている。時おり通り過ぎる高架線路上の東海道新幹線と、それに向けて切るカメラのシャッター、音がするものと言えばそれぐらいだった。
畦道を通りながら行儀よく並ぶひまわりを眺めていく。大輪の花は自分の目の高さからやや下ぎみにあった。ここに咲くひまわりはそれほど高くはないようだ。夢で見たひまわりはどれくらいの高さだったのだろう。
後ろを歩く陽太は、花に群がる蜂やアブが飛び回るのを必死によけている。相変わらず虫が苦手なのだと、夕夏はおかしくなって微笑んだ。
「なあ。陽太とお父さん、どっちが大きいん?」
陽太は姉の唐突な質問に怪訝な表情を浮かべた。
「大きいって身長?」
「そう」
「俺の方がデカいんとちゃうかな」
そうか、一番小さかった陽太は一番大きくなったんだ。夕夏は嬉しくなって、辺り一面を見渡して、頭ひとつ抜けているひまわりを見つけた。
「そしたら、あのひまわりが陽太やな」
陽太は姉の言うことが分からず、ただキョトンとしていた。
十六日。宵闇迫る黄昏時に、家族を祀ったお墓の前に夕夏は立った。隣には陽太もいる。
夕夏はこの日が一年で一番嫌いだった。送り盆。故人の魂をあの世へと見送る日。
「じゃ、お父さんとお母さんによろしくなあ」
「ああ」
頷く陽太の体が薄くなり始めていた。
夕夏は高校生の時に一家を失った。三人は車で出かけた折に正面衝突の事故に遭い、みな帰らぬ人となった。そのとき夕夏は部活に出ていて一人だけ取り残されてしまった。
未成年だった夕夏は親戚の家に引き取られ、世話になることになった。実家には時々帰ったりもしたが、生前の家族の匂いが残る家にいるのはあまりにも辛く、相談して売ることを決意した。
成人して就職をしてから親戚の家を離れ一人暮らしをするようになった。親戚に厄介になる引け目はなくなったが、孤独さは募った。仕事で上手くいかないと、もう生きていけないと思うようにもなった。陽太が現れたのは、そんな時だった。
お盆に墓参りに来て手を合わせていると、突然背後から姉を呼ぶ声がした。立っていたのは自分と同じだけ歳を重ねた陽太だった。
この奇跡は、魂が帰ってくるお盆の期間だけらしかった。自分にだけ見えて他人の目には映らない不可思議な現象。両親が姿を見せない理由は分からない。陽太もこの世に現れた時だけは父と母の声は聞こえないようだった。それから毎年このお盆の間だけ弟と過ごすことが、夕夏の何よりの楽しみだった。そして、この別れのときが何よりも悲しいことでもあった。
「来年も会えるよなあ?」
「どうなんやろ」
「なんでや、会えるって言うてよ」
夕夏の目には涙が溢れていた。いつか会えなくなる日が来るのではないか、夕夏はそれが一番不安だった。陽太は困惑した様子で夕夏を見つめていた。
「俺……本当に出てきてええんやろか」
「なに言うとんのよ。ええに決まっとるやん。もう会えへんなんて言わんでよ。淋しいやん」
「だって、姉ちゃん忘れられへんやん、俺らのこと。前に進めんって言うか……」
「忘れられるわけないやん。私は前に進んどるから、そんな心配せんで。また来年も会えるよなあ?」
〝前に進めない〟心の中を見透かされたようだった。夕夏はいつでも陽太に会いたがった。元々しっかり者だった夕夏が片付けられなくなったのも、そうすれば陽太が見かねて片付けに来てくれると思ったからだ。恋人がいないのも、結婚する気がないのも、あの部屋に誰かを入れてしまえば、陽太は現れないような気がするからだ。ある日突然自分の前からいなくなってしまった家族が、どういうわけか魂の帰ってくるこの時だけ姿を現すなら、何を犠牲にしてでも会いたかった。
陽太の姿はほぼ薄闇に消えかけていた。夕夏は縋りつくように泣き叫んでいた。陽太の声は聞こえなかった。最後の最後でフッと微笑んで消えて行ったような気がした。
また会えるよなあ。涙でかすむ夜空に星がチラチラと瞬き始めていた。