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アートの力【8分小説】

 静けさが漂う館内に男の声がこだまする。キャンバスを前にして手を動かしながらスペイン語で説明しているのを、脇にいる女性通訳者が聴衆に向けて言葉を訳した。
 わたしのいる位置からスペイン人の画家も通訳者も聴衆も見えるけれども、キャンバスに何が描かれているのか見えない。ゴシック調の大きな背もたれの椅子にはすに構えるように座り、左手で左胸に手をあてた姿勢のままほんの微かに口元を引きしめるように微笑を浮かべ、じっと画家を見つめている。
 学芸員であるわたしが本当にここに座っていいのだろうか。こんなわたしにモデルなんて務まるのだろうか。そんな不安がずっと心の中で渦を巻いている。時間がいくら過ぎても慣れることはない。むしろ、時の経過とともに不安と緊張に支配され、逃げ出したい気持ちに駆られる。それが表情に出ているのか、時おり画家から「微笑んで」と指摘が入り、なんとか気持ちを立て直しているような状態だ。
 先月から写実絵画の特別展が開かれている。うちでは写実絵画の作品を数多く所蔵する世界的にも稀な写実絵画専門美術館なのだが、今回は画家のセルヒオ・メリーノに特化した展覧会を開催していた。この企画展に付随してメリーノ本人によるワークショップも行われ、実践的な形で進めながら写実絵画へのアプローチと技法をレクチャーしているところである。
 彼の作品は写真かと見紛うほどの精緻さを極め、それに独特なアイデアを加えて唯一無二の世界観を作り上げる。その才能が評価され、スペイン国内では次世代を担う写実画家との呼び声が高く、将来が期待されるアーティストのひとりであった。
 この展示会の企画にあたって、わたしはメリーノの作品の調査のためにマドリードへと渡っている。本人立ち合いのもと、作品を所蔵している美術館やギャラリーを周りながら趣旨に沿った作品の選定や借用の可否、作品の保存状態などを調査して、実現に向けてひとつひとつ地道に話を詰めていった。
 メリーノは一般的にイメージするような陽気なスペイン人というわけではなく、比較的内向的な雰囲気をもつ青年だった。ただし人と接するのが苦手というわけでもなく、おっとりとしていてどこか自信なさげ、そんな印象を持った。
 うちの美術館の特性を説明すると、彼は「すてきな美術館だ」と何度も言ってくれた。メリーノが好意的だったこともあって企画もとんとん拍子に進み安堵感に包まれていくと、もう一歩踏みこんでみたい気持ちが芽生えた。
「うちでワークショップを開いてくれませんか? メリーノさんの表現技術や独特な発想法を知りたいと思う人は多いと思うのです」
 メリーノは少し考えてから割と簡単に承諾してくれたが、その後に控えめに条件を出してきた。
「あの……きみがモデルになってくれないか」
 その言葉にわたしは耳を疑った。人生でこれほど驚いたことはない。ワークショップとは言え、自分がメリーノの手によって描かれることなど夢にも思わなかった。と同時に「なぜ、わたしなのか?」という混乱にも似た疑問も抱いていた。
「はっきりとはわからないが、きみを描きたいんだ。なんだか描かなければいけないような気がする」
 正直、わたしは戸惑ってしまった。一介の学芸員でしかないわたしが彼のモデルになるなんておこがましいし、彼の芸術の琴線に触れるものなど何ひとつないと思った。とにかく自信がない。わたしがそうして答えあぐねていると、メリーノは俯き加減で「だめかな?」と気弱に呟いた。そんなメリーノの様子を見て、いくら身に余る大役とは言え、それを理由に断るのも失礼な気がし、日本でワークショップを開いてくれる機会も滅多にないことを思うと、恐縮しながらメリーノの希望に応えたのだった。
 それから少ない滞在時間をフルに使って、メリーノはいくつものポーズを写真に収め、さらにはわたしの生い立ちから現在に至るまでの話を、移動時間や夕食を交えながら丹念に聞き取っていた。
 帰りの飛行機で、わたしはぼんやりと学生時代のことを思い返していた。
 わたしが学芸員になりたいと思ったのは大学に入ってからだった。ただし、それは純粋に『学芸員になりたい』と心が求めていたというよりは、必死に『学芸員になりたいんだよね?』と言い聞かせていたような感じがする。
 わたしは幼いころから親の勧めで絵画教室に通い、絵を描いていた。中学、高校で美術部に所属し、絵を描くことはわたしの日常でもあり人生で切り離せないことだった。
 それにも関わらず、進路を考えたときに芸大で絵を描くことを学ぶという選択肢に尻込みしてしまった。画家やイラストレーターやデザイナーといった、絵を描く職業をしている自分がまるでイメージできなかった。
 一応コンクールで大賞を獲った経験もあり、受賞したことは大きな喜びではあったものの、絵を描く自信を深めるものにはならなかった。わたしの作品以外でも素敵な作品はたくさんあったし、受賞したのが不思議に思えた。絵を描くことは当然好きで描いていたし、楽しいから描いていたのだが、同時に苦しみ、悩み、苛立つことだって数知れなかった。そうした不安な感情は容易にわたしから自信の芽を摘み取っていった。絵を描くことより、学校の勉強の方が成果がはっきりと目に見えた分、学問として学ぶ方へ逃げるように選択したと、客観的に振り返ってそう思う。
 しかし、学芸員の道だって容易ではなかった。美術史の基礎を学び、専門分野を選択して、研究して論文の発表となると、膨大な知識と深い考察、鋭い洞察力などを必要とし、たちまち先輩研究生の力量に圧倒されてしまった。
 幸い学芸員になれたのも、運が良かっただけとどこかで思っているし、この仕事に従事していても満足に学芸員の本分を全うしているのかと不安に苛まれることが多々ある。
 わたしの素姓を知ったメリーノはいったいどんなことを思ったのだろう。どんな風にキャンバスに描かれるのだろう。写真では表現できない彼の感性が楽しみでも怖くもある。そんなことを思いながら帰路についたのであった。
 
 二時間近くに渡るワークショップが終了し、聴衆から拍手が沸き起こった。それを合図に、わたしも緊張から解き放たれ、体を動かせる自由を得た。メリーノは労うようにわたしのもとへ来て握手をし「ありがとう」と互いに言葉を交わした。
 キャンバスを覗きこんでみると、そこに描かれていたのはワークショップの教材とは思えないほど細かくデッサンされた下絵に、部分的に色を入れたものだった。あらかじめ下書きしていたものに実物のモデルを見て修正を施しながらデッサンをしていき、髪の毛や肌の色、陰影の部分を実際に色を入れてレクチャーしていたようだ。まだ、メリーノの〝超〟が付くほど写実的な完成作品からは遠いが、それでも彼の才能の片鱗を垣間見るには充分だった。
 キャンバスで見る自分は、どこか優しげでなんとなく慈愛がにじみ出ている——はっきりとではないが、そんな風に感じた。鏡でも写真でも見たことのない表情だ。
「これは、アトリエに戻ってから時間をかけて仕上げるよ」
「え? 完成させるの?」
 メリーノの言葉に思わず驚いてしまった。すると、メリーノもわたしの反応を見て驚き、当り前じゃないかと不思議そうに答えた。
 まさかメリーノの作品群に加わるとは思ってもみなかった。てっきりワークショップでだけお披露目する小品ぐらいにしか思っていなかったし、それにしたって身に余る光栄なのに。
「そんな……わたしなんて……」
 なんと言っていいのか言葉が見つからず、ただ恐縮しておろおろとしてしまう。
「大丈夫。喜んでもらえるように頑張るから。それに実際にモデルになってもらって新たなアイデアが思い浮かんだんだ。そうだなー、ここの展覧会が終わるまでには完成させてみせるよ」
 メリーノは少し自信を覗かせるようにして、優しく笑った。
 
 三ヵ月に渡る特別展が終了し、借用した作品を返すためにわたしはまたマドリードへと向かった。借りた時と同じようにメリーノ立ち会ってもらい、それぞれの所蔵元へ返却し終えてから、最後にメリーノのアトリエへと立ち寄った。
 メリーノと同行しているあいだ中、わたしをモデルにした作品の進捗状況が気になっていたが、それを自分から聞くのもおこがましいような気がして、その気持ちをずっと心にしまい隠していた。
「さぁ、お待ちかねの完成お披露目会だよ」
 メリーノはそんなわたしの気持ちを見透かしていたかのように言い、作品の方へとわたしをいざなった。イーゼルにシルクの布が被せてある。メリーノはそれにゆっくりと手をかけてから静かに布を払うと、まるで光を放っているような、息をのむほどの美しい絵画が姿を現した。
 白いノースリーブワンピースは眩いほどに光り輝き、肌の質感や髪の毛の一本一本のきめ細かさは、超写実画家の腕前が存分に発揮されていて、写真とまるで遜色がない。そして左手で添えた左胸には、ワークショップでは描かれていなかった驚くべきものが描き足されていた。
 樹木にできるほらのような暗い穴から、もう一人のわたしが顔を覗かせている。不安に怯えているような表情を浮かべ、両手で頬を被っていた。そして一目瞭然と言えるほどに、『不安なわたし』だけテイストが違う。顔や被っている手はまるでつぎはぎのぬいぐるみのようで、淡くカラフルな色合いで造形された上に精緻な表情が描かれている。
「これは……」
 わたしはその部分に見入りながら口にすると、脇から様子を見ていたメリーノはその真意を説明した。
「まず——きみはとても優秀な学芸員だ。ぼくはきみをそう評価している。だがきみは、なぜかとても自信がなさそうだ。謙遜しているのではなく、本当にたいした者ではないかのように。そんな自分自身をもっと愛せたらというのが、今回のテーマになった」
 メリーノはここまでを流暢に説明すると、その後は言葉を探しながら、時おり考えこんで、丁寧に言葉を継いでいった。
「きみと会話をしていく中で、なんとなくぼくと共通する部分を見つけた。ぼくはひどく神経質で完璧主義的な性格をしている。そのせいもあって、ものすごく心に負担がかかって狂ってしまいそうになることが多いんだ。うん……どこか欠けていると、全てがダメのように思ってしまう。多くの人がぼくの作品を評価してくれるけど、他にだって素晴らしい画家は山ほどいて……もちろんこないだ行った日本にもね。そんなアーティストたちの作品を目の当たりにすると、自分のものなんてたいしたものではないかと思えてくる。いくら完璧であってもだ。きみの人生を聞かせてもらったら、なんだかぼくを客観的に見ているような感じがした。だから直感的にきみを描かなければいけないと思ったんだよ。もっと不完全な自分を愛そうと。心を壊さないために。この作品はきみを通して、ぼく自身に救いを与えてくれた。ありがとう。きみと出会えたおかげで、新たな挑戦ができたよ」
 メリーノは穏やかな表情でわたしに感謝の握手を求めてきた。差し出された手を握り返して「こちらこそ、ありがとう」と、わたしは言った。
 なんだか色んな感情がごちゃ混ぜになってしまった。
 わたしの心の奥深くに巣くっている怯えを柔らかく包むように表現してくれたメリーノの温かい感性に感極まりそうになるし、同じような悩みでメリーノが煩悶していることに驚いてしまう。こんな偉大な画家とわたしに共通するものなんて畏れ多くて縮こまりたくもなるし、本当にどう整理していいのか分からない。
 ただ——メリーノが描いたわたしは、自分でも本当にこんな表情ができるのかと思うほど慈愛に満ちていた。自分を赦してもらえた、なんかそんな気がした。心の中から光が波紋していくように身体中に広がっていくのを感じて、わたしは改めて「本当にありがとう」とメリーノに伝えた。

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